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第30話 若い夏

 予想はしていたが中間テストは散々な結果だった。  けれど三弦は咲也からのメッセージを毎日大切に見る。単なる事務的連絡も穢れ切った日常には一条の光だった。  徳丸や音丸にまで喜びのメッセージを送った。  折しも祖母から荷物が届いた。何故か高級海老煎餅が何箱も入っていたので落研や月の湯に配り、残りは自分でぼりぼり食べた。  祖母の手紙で音丸の勉強会があることを知ったので再び東京に出かけたのだった。  新幹線ではなく高速バスにしたのは、小遣いに困っているわけではないがラブホごときに無駄遣いをした自分への戒めだった。  ここで三弦は中園龍平と改めて知り合った。かのミヤマクロユリ。天然パーマの眩いばかりの美青年である。  何故と言って今回は、 「失礼ですが、あなたは柏家仁平さんのお孫さんなんですか?」  と向こうから近づいて来たのだ。  落研という極小地域でのスター扱いに慣れ始めた三弦は、進んで龍平と歓談しスマホの連絡先も交換したのだった。  この青年が音丸にとってどんな存在なのか突き止めたいという下衆な下心がなかったとは言わないが。  仲入りに音丸がちらちらこちらを見ているのに気づいて、何故だか少しアドバンテージをとった気分になっていた。子供扱いされて祖父の家に送り返されるまでは。 〈もし三弦さんがよろしければ、落語会の前にランチでもご一緒したいのですが、ご都合はいかがでしょう?〉  咲也からのメッセージに三弦は我が目を疑った。  その日も海老煎餅を夕食代わりに齧っていたのだ。喜びの余り煎餅をばきっと噛み砕いた。  大学祭の落語会は午後からである。徳丸は都内の仕事の後で一人長野に駆けつけるとのことだった。咲也とは別行動である。つまりランチを一緒にしたいとは、    咲也は徳丸抜きで!  三弦と二人きりで!   ランチをしたい!   と誘っているのだ‼   三弦はOKのスタンプを送るなり、咲也が何を食べたいのか、何が好きなのかと矢継ぎ早に質問した。そしてデートに使えそうな店を検索しまくるのだった。  ようやく春が訪れた気分だった。秋分の日だが。  前日は月の湯でこれでもかと言うほど身体を磨き上げた。そして当日は朝早くに起きて部屋の隅々まで掃除をした。  布団まで干したのはどうしたことか。いや別に咲也をこの部屋に招いたり、いかがわしいことをする気はない。ただ万が一ということもある。  鼻歌まじりで家事に勤しんでから遅い朝食にした。最後に一個残っていた音丸製の冷凍三角おむすびである。  実のところ三弦はあれから炊飯器でご飯を炊いて自炊のようなことを始めていた。冷凍食品を詰めた弁当も作れるようになっていた。いずれおにぎりにも挑戦するつもりで音丸のおにぎりを見本に残しておいたのだ。  だが今日こそこのおにぎりを食べねばなるまい。何となくこれは縁起がいい食べ物に思えていた。腹に収めれば必ずや幸運が訪れようぞ。などと、もはや宗教である。  長野駅の新幹線改札口にまた出迎えに行く。外は秋空の見本のように青々と広がり、駅構内にもそんな光が満ちているのだった。  だが改札口を凝視していたにも関わらず三弦は咲也を見つけられなかった。  小振りなスーツケースを引いて近づいて来た痩せた女性に、 「三弦さん」  声をかけられてぎょっとする。  傍らに立った咲也は、夏にここで別れた時とは別人のようだった。 「あ、げ、元気だった?」  と言ってから、どうにもまずい挨拶だったと気がつく。  明らかに今の咲也は元気ではなかった。微笑む顔は眼窩が落ち窪み頬もこけている。何やら深刻な病気に罹っている病人であるかのようだった。  高校球児のように短かった髪はショートヘアになっていたが、無惨な伸び放題にしか見えない。それが痩せた身体と相まっていよいよ入院患者めいて見える。  咲也は体調を崩して富山の実家で静養しており、今日も富山から直接来たと言う。 「へえ、そうだったんだ?」  と知らないふりをする。  実は徳丸からも連絡はもらっていたが、そうでも言わないことには痛々しいまでの変化に対応できなかったのだ。咲也が引いているキャスターケースを持とうとするが、 「いいえ。衣装ですから自分で持ちます」  と断られる。それはそうだと頷いて、先に立って歩いて行く。  検索しまくって選んだのは、明るく可愛いパンケーキの店だった。  高座の前は軽い物がいいだろうと選んだのだが、いざ来てみれば明るい店内には若く健康そうな女性ばかりである。痩せ衰えた咲也はひたすら浮いて見えるのだった。  店選びを間違えたと後悔しつつも殊更に明るくふるまう。咲也も笑顔で〝山の県境落語会〟や製菓会社社長宅での落語会に関して礼を言うのだった。 「本当にお世話になりました」とプレゼントまで渡される。開いて見ればちょっと洒落たサコッシュだった。  咲也にはあの時の謝意を表明する以上の他意はないようだった。  あれから東京に戻っての前座仕事やら、富山の実家での静養生活やら面白おかしく話して聞かせる。三弦は愛想笑いのはずが本気の笑いになっていた。前座でもやはり落語家である。  そしてパンケーキの皿も紅茶のポットも空になると、咲也は居住まいを正した。 「今日が落語家としての仕事納めです。いえ前座はまだ落語家とは言えませんけど……私には最後の仕事です」 「最後って?」 「九月いっぱいで廃業します。もう師匠方にもご挨拶を済ませて、落語芸能協会にも届けを出しました」 「はい? え? だって……」 「実はもう東京のアパートも引き払っているんです。実家で暮らすことにしました。三弦さんにはとてもお世話になったので、ご恩返しの機会をいただいてありがたいと思っています」 「廃業って……え? 辞めちゃうの?」 「こちらを最後のお仕事にすることで究馬師匠にお許しをいただいております。今日は精一杯務めさせていただきます」 「え……でも、どうして?」  と三弦はただひたすら無意味な単語を発している。  そして定員五十名の教室で開かれた落語会は無事に済んだらしい。  三弦はただもう呆然としていたので、覚えているのは開口一番の咲也が〝子ほめ〟を達者に語ったことぐらいである。四角い顔の柏家徳丸が何を演ったのかなど記憶の外である。ただ無暗に心の中で「何で?」「どうして?」と繰り返すばかりだった。  あまりに呆然としていたので、加瀬教授が車で徳丸と咲也を長野駅に送って行ったのも気づかなかった。つまり咲也と別れの挨拶を交すことすら出来なかったのだ。  落研部員が口々に女性前座を招聘した三弦を褒め称えるのも、単なるざわめきのように聞き流していた。落語会場だった教室の後片付けを済ませると、肩を落として老朽アパートに帰るのだった。  陽が落ちるのが早くなった秋の夕刻、張り切って掃除をした室内が蛍光灯の白々した光に照らされるのも空しいばかりだった。靴を脱いで部屋に上がってまた、 「え、何で?」  と一人呟くのだった。

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