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第31話 後朝の朝

10 後朝(きぬぎぬ)の朝  区民会館での勉強会の後。音丸は、打ち上げがお開きになって少しばかり迷った。  龍平は徹夜仕事があるから帰宅したのだ。部屋に行っても何も出来まい。せいぜい顔を見るだけである。  それでもいいと思える自分が意外ではあった。あれはセフレではなかったのか?  とはいえマンション前の児童公園で佇んでいた〝サプライズ〟を思い起こせば気が進まない。とつおいつ思案しがら奴の部屋に向かう地下鉄に乗っていた。  欅の巨木が立つ児童公園では既に秋の虫が小さく鳴いている。もう蚊に刺されることもあるまい。  外階段を上って玄関のチャイムを鳴らす。ドアを開けた龍平は、既にスウェットの部屋着姿だった。 「今日は悪いけど……報告書を仕上げなきゃならないんだ。徹夜しなきゃ間に合わないし……」  玄関先から覗き込めばなるほど狭い部屋のテーブルにはノートパソコンが開いてあり、床には資料らしきファイルや書類も広げて仕事の真っ最中らしかった。 「明日の朝九時が締め切りだから。帰ってくれない?」  と言うわりには、ひたと身を寄せられ背中に両手を回される。  となれば音丸とて背後の扉を閉めて、胸にその身を抱き寄せる。  たちまち坂下ラブホの続きであるかのように熱い抱擁を交わし激しく唇を重ねる。音丸は後ろ手にドアの鍵をかけて、二人もつれ合うようにして室内になだれ込む。  鍵をかけた室内でやることなど一つしかない。  烏カアで夜が明けて……。 〈仕事は大丈夫だったか?〉  音丸はLINEにメッセージを書きかけて削除する。 「今時の若い者は何でも〝大丈夫〟だ。そりゃ、いいのか悪いのかどっちなんだ?」  口うるさい老師匠がぼやいていたのを思い出す。 〈一晩中やってばかりで悪かった〉  その言い方もどうなんだ? とこれも削除する。   確かにやってばかりいた。これまで何度も中途半端に終わったことを最後までやり遂げたのだ。多幸感に満ち満ちて抱き締めれば、また飽きずに抱いて抱かれて夜通し貪り合った。  音丸が疲れ果てて眠りに落ちたのと、龍平が出勤の身支度を始めるのは殆ど同時だったように思う。  薄暗い明け方に誰にともなく「会社でやる」と言っては資料やパソコンをビジネスバッグに詰め込む音が聞こえていた。それすら音丸には幸せな響きだった。「行って来ます」と小声で言うのに眠りにたゆたいながら甘い気分で「んん」と呻ったものである。 〈君が声夢に消えゆく後朝の朝〉  筆で色紙に書けばこそ。揃ったフォントで見れば駄句は駄句である。こんなもの送れるか。  結果から言えば、あの後音丸は中園龍平に何も連絡をしなかった。  何か伝えるべきとは思ったが、どう伝えればよいのかわからなかったのだ。  というのも、はっきり目覚めてから気づいたことがあった。  シャワーを浴びていて鏡に噛まれた痕を見つけたのだ。  何か所か微妙な痕はあったが、それはまあ都都逸でいうところの、 〝痣になる程つねっておくれ、後でのろけの種にする〟  といった嬉し恥ずかしのものだった。無論のろけるわけにはいかないが。  だが、背中寄りの首の付け根にあったのは完全に歯型だった。力一杯噛んだのが今はまだ赤い痕だが、やがて紫色に変わってもなかなか消えないに違いない。  もう大昔のことにしてしまいたいがほんの一か月ほど前のことである。謝罪行脚の帰り道、駅のホームで倒れて仁平師匠を下敷きにした。その際、師匠の前歯が当たって切れた箇所である。  坂上焙煎珈琲店の下にあるラブホテルでも龍平はこの傷跡を気にしていた。  今はもう傷も癒えてうっすら白い線のような痕でしかないのに、やはり目敏く見つけていた。 「これ何?」と吐息の合間にここを撫でられて笑ってその指に指を絡めた。「ねえねえねえ」とそこを吸われて唇を吸い返し「これどうしたの?」と問われて腰を抱き寄せたりした。  早い話が音丸は言葉で答えることはしなかった。  ついには焦れた龍平に激しく噛まれたのだ。  けれどそれすら情欲を燃え立たせるきっかけにしてしまった。  夢の夜が過ぎればはっきりわかる。  奴は本気だった。  たぶん何かを疑っていた。  きちんと答えるべきだった。  以来、何度もスマホに文章を書いては消していた。 〈あの傷跡はキスマークなんかじゃない〉  文字を眺めて削除する。  龍平の噛んだ痕は着物の衿なら隠れる位置である。  だがTシャツやトレーナーだと襟口から覗いてしまう。当分はカラーのあるシャツを着なければなるまい。そんな服は持っていたかと現実的な事だけを考えていた。  九月二十二日の秋分の日以降、にわかに三弦からの連絡が増えた。 〈咲也さんと連絡がとれません〉  大学祭に前座として来てくれたが、そのお礼が送信できない。機種変でもしたのか。連絡先を知っていれば教えて欲しい。と畳みかけて来る。 〈咲也さんは本当に廃業したんですか?〉  に始まる質問もあった。落語家協会の音丸にその情報はない。龍平に何を伝えるべきか未だ迷いの渦中にある音丸には、咲也、咲也とうるさいばかりである。 〈芸協の前座のことは知りません〉とまた切り口上でメッセージを送りかけたところだった。ちょうど赴いた浅草の楽屋で張り出しを見つけた。 〝落語芸能協会の前座、柾目家咲也が九月末日をもって廃業しました〟  寄席や協会から落語家たちに連絡事項がある場合、紙に書いて楽屋の壁に張り出すのだ。アナログ極まりない伝達方法である。  三弦が知りたがっていたのはこの件だったのか。  音丸にとっては〝山の県境落語会〟から始まる災難だったが、咲也にとっては恋人桐也の裏切りから始まる受難なのだ。なかなか心に痛いだろう。 「辞めたくもなるよな……」  と呟いたところに背後から、 「あのタレ前座、辞めたのか」 いつの間にか来ていた弦蔵師匠が肩越しに張り出しを覗き込んでいた。 「おはようございます」と振り向いたところが、 「あんちゃんもいい迷惑だったよな」  と肩を叩かれ言葉に詰まる。  ちょうど例の歯形が未だ残っている肩口に手が当たっている。 「まあ、今度また呑みに行こうや」 「ありがとうござ……」  言いかけて言葉を飲み込んでしまう。  何だって泣きそうになっているのかわからない。  弦蔵師匠はにやりと笑って楽屋の奥に入って行った。 〈芸協から正式な発表がありました。柾目家咲也は九月末日付で落語家を廃業したそうです。今は何も連絡しない方が親切かと思います。大学の落語会についてもお礼は不要だと思います〉  などと三弦に送るメッセージはすらすら書けるのだが。  龍平に文字を送るのは諦めて、空いた時間に電話をかけてみる。  だがどうにも電話がつながらない。後になって〈ごめん。会議中だった〉〈後でかけ直すね〉〈悪い。電車の中だから〉とメッセージが届く。  そうして龍平が電話をかけて来る時は音丸が高座に出ているか打ち上げなど呑み会の最中だった。そもそもスマホの電源を切っている時間が他人より長いのだ。今度は着信履歴に龍平の名が並ぶ。  見事なまでのすれ違いである。今に始まったことではないが。  新宿の十月中席、四派連合の会も好評のうちに終わったらしい。音丸はようやくキャンセル騒ぎも治まり、仕事も通常営業に戻りつつある。  秋も深まれば落語家協会主催の学校公演がある。落語という古典芸能を若い世代に普及すべく落語家や色物芸人がグループで地方の学校で公演して回るのだ。今年は中国地方から九州、五島列島まで回って帰って来る一週間の旅程である。そんな旅仕事に出れば二人の距離はますます開いてしまう。  肩口の歯形がどす黒く変色し、やがて消えても音丸はそこを触らずにはいられない。何とか連絡をとらねばと焦るばかりである。  そんな時、見知らぬ番号から電話が入った。 「音丸あにさんですか。柾目家咲也です」  機種変更した咲也からだった。いや既にもう咲也という芸名ではなくなっているのだが本名は知らない。  音丸が学校公演ツアーに出ることを知って、その前に挨拶に行きたいというのだ。〝山の県境落語会〟の礼と廃業の挨拶らしかった。 「事前にご連絡をするなんて失礼で申し訳ないんですが」という前置きは落語家の世界ならではである。アポなし訪問が原則の世界なのだ。だが今や富山の実家で暮らしている咲也がアポなしで東京の音丸の家を訪ねるなどリスキーに過ぎる。 「もう落語家じゃないんだ。そんなことを気にしなくてもいい」  と日にちの約束をしかけて、 「いや。ちょっと確かめたいことがあるから、後でまた連絡する」 と電話を切った。 〈咲也が私の家に挨拶に来ます。三弦さんも同席されますか?〉  取り急ぎ送ったメッセージに〈はい‼〉と即座に返事が届いた。  音丸は改めて咲也に電話をして日取りを決めた。  あの天然パーマとは何故こんな風にすんなりやりとり出来ないのかともどかしく思いつつ。

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