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第32話 後朝の朝

 咲也の訪問日。三弦は長野からまた高速バスに乗って新宿の寄席にやって来た。 〝押っ取り刀〟という言葉の見本のような表情だった。  何やら洒落たサコッシュを斜め掛けにして、手には手土産らしい紙袋を下げている。昼席の浅い時間に出演した音丸は三弦と共に帰路についた。  三弦は中学生の頃、母親と共に音丸の部屋を訪ねたが今や道順も何も覚えていないという。 だが木造二階建てアパートの前に立つなり「ほら! やっぱりそっくりだ」と得意気に指差したものだった。  なるほど。確かにここは長野で三弦が暮らしているアパートによく似ている。たぶん同時代にこういった形式の木造建築が日本全国に建ったのだろう。共同玄関を上がって脇にある炊事場に入る。食堂にもなるちょっとした空間だった。  二階の自室には桐箪笥ぐらいしか家具はないのだが、旅仕事の支度で衣装や着替えを広げたままである。スーツケースに詰める途中で仕事に出てしまったのだ。客を招き入れる状況ではないし、まして咲也のようなうら若き女性にはとても見せられない。  なので共同炊事場を応接間代わりに使った。アパートの住人たちも習慣にしていることである。  共同炊事場にはガス台が何口もあり大きな調理台もある。大人一人が大の字に寝そべっても余裕の大きさである。住人たちは料理した物は自室に運んで食べるのだが、作るなり調理台を食卓代わりに食べる者も多い。  その広い調理台の角を挟んだ椅子に座って音丸と三弦はお茶を飲んでいた。秋の昼下がり、長閑な時間である。 「これ、僕が作って来たんだ。最近自炊しててさ。おにぎりも作れるようになったんだよ」  三弦は紙袋から大き目の弁当箱を出した。百円ショップで買ったというシンプルなPP容器である。自慢げに蓋を開けた中にはおにぎりが何個も詰まっていた。三角というより丸に近いおにぎりだった。隅には箸休めの野沢菜も入っている。  それらを見た途端に音丸は後ずさった。  おにぎりに蛆虫が混入している。  いや蛆虫に似た蜂の子の佃煮を炊き込んだご飯だった。 「音丸さんに食べてもらいたくてさ。炊き込みご飯は信州料理のレシピサイトで見たんだ」 「…………」 「こっちは表にイナゴの佃煮を埋め込んでみたんだ。飛んでるみたいに見えるでしょう?」 「…………」  とりあえず頷いた。褒めるべきとは思ったが言葉が出なかった。  その斬新極まりないおにぎりを食すべき局面に立たされたところに咲也がやって来た。 「ごめんください」という声を聞くなり三弦は椅子を蹴立てて立ち上がり、 「こっち! 上がって、咲也さん」  と我が家のように案内する。音丸はその隙にそっと弁当箱に蓋をした。  なのに、咲也は三弦に勧められて蓋を取るなり、 「すごい! 三弦さんは芸術的センスがあるんですね」  と褒めるのだった。  どうも咲也は本気で感心しているようだった。三弦はといえば満更でもない顔でお茶を淹れている。  案外この二人は気が合うのではないか?  立ち尽くしている音丸に、咲也は改めて深々と頭を下げた。 「〝山の県境落語会〟では大変お世話になりました。本当ならすぐにもお礼に伺うべきだったのに……遅くなって申し訳ありませんでした」  と差し出すのは重そうな一升瓶が入った手提げ袋である。 「富山のお酒です。あと二か月もすれば新酒が出るので、その時にはまたお持ちします。今日のところはこれでご勘弁ください」 「すまんな」と酒に関しては遠慮せずに受け取る音丸である。一升瓶をわざわざ地元から下げて来るだけでも大変な労力である。押し戴く。  三弦は自分が空けた席を咲也に勧めた。咲也と音丸は角を挟んで向き合うようになる。三弦は音丸の横に並んで座った。 「百合絵さんから伺いました。音丸あにさんは桐也にきちんと釘を刺してくださったそうですね。ありがとうございました」 「いや」と被り気味に遮って音丸は流し台に立った。  とにかくあの件に関してはもうあまり思い出したくないのだ。咲也が田舎に引っ込む気持ちもわからぬでもない。  洗い場にずらりと並んだ誰の物とも知れないグラスを一つ取った。 「味見させていただくよ」  と地酒の封を切る。 「みっちゃんも呑んでみるか?」  と尋ねるも、三弦は神妙な顔でふるふると首を横に振った。視線は咲也に定めたままである。 「咲也も散々な目に遭ったな。落語のことはもう忘れたいんだろう」  音丸は軽くグラスの酒を空けて言う。ついでに三弦の弁当箱から野沢菜を摘んで肴にする。 「でも、だけど……ショックだったのはわかるけど。何も廃業しなくても……」  と必死の形相なのは三弦である。 「学祭で咲也さんの〝子ほめ〟を聞いたけど、軽くてすごく良かった。あんな前座噺で笑わせる人って少ないよ。辞めるなんてもったいなさ過ぎるよ」  音丸は咲也に代わって、 「もう決めたことだから」  と口をはさむのだった。 「みんなにも散々引き止められたんだろう。それでも決めたんだから仕方がない」  咲也は三弦にも深々と頭を下げて言うのだった。 「三弦さんにも本当にお世話になりました。正直に申し上げますと私、精神科のカウンセリングに通っているんです」 「カウンセリング……精神科の?」 「変な話ですけど。山の……あれから私、男性恐怖症みたいになってしまって。楽屋の袖とか暗いでしょう。そういう所に男の人と二人きりでいると、勝手に心臓がどきどきして身体が震えて来るんです。ホテルで大師匠に襲われた時みたいにパニックになって……」  並んで座った音丸と三弦が殆ど同時に身を引いた。咲也から少し離れようとしていた。それに気づいたのか咲也は困ったように微笑んで続けた。 「大丈夫です。音丸あにさんや三弦さんはそんなに怖くないです」  三弦はうつむいて自作の蜂の子おむすびをもぐもぐ食べている。音丸は酒をまた口に含む。 「何とか克服しようとしたんです。でも落語界にいる限り、大師匠とは顔を合わせなきゃならないし、桐也とだって……だからもう、とても無理だと思って辞めることにしたんです」 「じゃあ、落語にはまだ未練がある?」  と尋ねる音丸に咲也は「わかりません」とふっと笑って見せた。  そこで身を乗り出したのが三弦だった。 「もし……もし落語じゃなくて逸馬師匠が無理なだけなら……。何も廃業しなくても。たとえば芸協じゃなく落協の……別の師匠に再入門する手もあると思うんだ」  音丸は横目でちらりと三弦を見た。三弦は慌てて残りの蜂の子おにぎりを口に押し込んだ。ガンを飛ばされたと思ったらしい。別に非難したわけではない。 「そういう考え方もあったか」  と声にして言う。三弦はほっとしたように表情がゆるむ。声にするのは大事だと今更思う落語家である。  しばらくお茶を啜って湯呑みを弄んでいた三弦は、意を決したように口を開いた。 「もともと柾目家って男臭いイメージでしょう。酒と博打と女、みたいな男の噺が得意だし……その点、柏家は柔らかいイメージだと思うんだ」 「それはありますね」 と音丸が同意をすると勇気を得たように三弦の声は力強くなった。 「だよね! いや僕が言うのも変だけど、もし再入門するなら柏家とかがいいと思うんだ。あと音羽亭なんかも見た目は怖いけど、めっちゃ繊細だと思う。きっと女性ファーストだよ」 「みっちゃんは落語評論家になるのか?」  思わず混ぜっ返してしまう。  だが三弦が言ったことは全て音丸も常日頃感じていることだった。それをきちんと言葉に出来るのは頭がいいのだろうなと思う。もう一人頭のいい奴が思い浮かんだがこの際関係ない。 「まあ……もしまだ落語に未練があるならって話だ」  当惑して黙り込んでいる咲也に向かって音丸はそう付け加えた。

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