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第33話 地獄堕ち

11 地獄堕ち  音丸のスマートフォンのバイブが鳴った。  見れば、ちびドラゴンのスタンプが届いている。 遅れてメッセージが、 〈家の前に居る。話せる?〉  もう一人の頭のいい奴からだった。  音丸が顔を上げるより早く、咲也は腰を上げた。 「じゃあ、私はそろそろ……帰りの新幹線の時間が迫っているので」 「あ、じゃあ僕、駅まで送って行くよ」  と三弦もまた素早く腰を上げた。  秋の日が落ちるのは早い。気がつけば共同炊事場も既に薄暗くなっていた。明りを点けてから玄関に向かう。  玄関先、暗い中に灯った橙色の明りの元で咲也と三弦が並んで浮かび上がった。ちょっとした好一対である。  咲也は深々と頭を下げた。 「音丸あにさんには本当に……本当にお世話になりました。お元気で。立派な真打になってください。楽しみにしています」 「いろいろと災難だったな。嫌なことは忘れるに限る。実家でのんびり暮らすといい」  はなむけの言葉のつもりで言った音丸はまるで自分に言い聞かせているような気もした。  仕事を終えた住人たちが帰って来る道を、肩を並べた咲也と三弦が逆方向に歩いて行く。  師匠の孫の恋心は果たして成就するのか。かなり疑問に思いながら腕を組んで見送った。 「入っていい?」  という声に振り向くと、玄関横の植え込みの前に天然パーマが佇んでいた。  薄暗いのにそこだけ明るく見えるのは何故なのか。 「サプライズって、こうやるんだよ」  流しでグラスを洗っている音丸の背後で龍平が言う。  公園で蚊に刺された〝サプライズ〟については共寝の夜にやっと打ち明けていた。音丸は裸にならないと素直になれない傾向はある。 「原始人なの?」  と龍平は呆れたものである。  あの日は土曜日で、会社の仲間たちと軽井沢合宿の反省会をしていたと説明してから、 「だからLINEでも電話でもくれれば、会社のみんなは追い返したのに」  と口惜しがっていた。  旅の支度で雑然としている部屋に龍平と共に戻る。広げた荷物を慌てて拾い集める音丸に「いいよ」と言ったきり龍平は入り口の引き戸に背を預けて立ち尽くしている。 「僕やっぱり音丸さんとは別れようと思うんだ」  音丸は長着を抱えた手を止めて龍平を振り返った。 「さよならってさ。言いに来た」  音丸は彫像になっている。ようやく出た声は、 「いや、しかし……何を、え?」  意味不明な声ばかりである。にわかに思い出したのは肩口の歯形である。いきなり手にした着物をどさりと落としてそこに手をやった。今もまだ襟のあるシャツを着ている。 「これは違うんだ。これは、キスマークとか変なんじゃなく。師匠の……」 「師匠の孫が?」 「違う‼ 関係ない‼ そんなんじゃない‼」  思い切り大きな声が出た。階下から誰かが、 「うるさい‼」  と叫び返した。共同調理場で夕食を作っている住人らしい。豆板醤の香りが部屋まで漂って来る。 「仁平師匠が転んで、いや私が、私を助けようとして、下敷きにして、歯が当たって、差し歯が取れて……」 「何言ってるかわかんないんだけど?」 「だから、これは違うんだって。単なる怪我なんだ」  龍平に近づいてその肩に手をかけようとしたが、するりと見事にかわされた。龍平は憐みのような不可思議な目つきをしている。 「わかってるよ。別に変なのじゃなく、ただの怪我だろうと思ってた」 「じゃあ、それなら……」 「何も言ってくれないのが嫌なんだよ」  声は出なかった。ただ立ち尽くして龍平の言葉を聞いている。 「ねえ。音丸さんずっと仕事を干されていたんでしょう? ファンサイトのスケジュールを見て変だと思ったけど。百合絵さんが詳しく教えてくれたよ。ひどい濡れ衣を着せられたとか」 〝濡れ衣〟  今回の騒ぎで初めて聞いた言葉だった。  音丸は龍平の目に吸い込まれそうな勢いで凝視している。龍平もまた音丸を直視したまま尋ねるのだった。 「ねえ、何で?」 「何が?」 「何で僕は、そういう事を他人から聞かなきゃいけないの? 何で直接言ってくれないの? 僕ら恋人同士じゃないの?」 「…………」 「もしかして単なるセフレと思ってる?」 「…………」 「だからセックスだけしてればいい、仕事のことなんか話さなくてもいいって思ってた?」 「そういう……ことじゃ……」  言いたいことが殆ど口から出て来ない落語家である。どこが未来の名人なんだ?   龍平は室内に散らばった衣装や着替えを見回して、 「今度の学校公演のツアーだって僕、スケジュールを見て知ったんだよ。音丸さん、僕に何も言ってくれないじゃないか! 一週間も留守にするのに。何も言わないで出かけるつもりだったの?」 「や……それは……いや……」 「だから、もういいと思って。明日から出かけるんでしょう。じゃあ今日で終わりにしよう」 「待てよ。旅から戻ってまた改めて……」 「改めて何? もういい。僕もう待ちくたびれたよ。こないだ会った後だって何も連絡ないし」 「電話したじゃないか! 出なかったのはそっちだ」 「LINEは? メールでもいいけど。音丸さんて全然まめじゃない。はっきり言って、やりに来るだけじゃん。やっぱり僕はセフレだろう?」 「違う‼」 「二階、うるさい‼」  また共同調理場から罵声が飛んで来る。作っているのは麻婆豆腐らしい。音丸は声を落として続けた。 「セフレとか、そんなんじゃない。龍平はちゃんと……」  ちゃんと何なのか? どうしてこうも言いたいことが出て来ないのか。  部屋の中央に立つ音丸と戸に貼り付いた龍平とは一定の距離を保ったまま睨み合っている。  眦を吊り上げた龍平の瞳はぎらぎら輝き、それすら美しいと思ってしまう音丸である。 「……みっちゃんとはいろいろ話してるんだってね」  と龍平は挑発するように顎を上げた。 「ちょっと待て。おまえが、みっちゃんとか言うな。仁平師匠のお孫さんだぞ」  今度は音丸が尖った視線で切りつけた。  だが相手はひるむ様子もない。 「本人に許可とったよ。僕、勉強会で話したから。音丸さんて長野のみっちゃんの部屋に泊ったんだってね」 「だから! ただ泊っただけだ! あの子供と何かするわけないだろう」 「知ってるよ! 彼とは何もしていない。でもいろいろ話している。まめにLINEやメールも送ってるんだってね。僕が望んでるのはそういうことだよ。セックスなんかじゃない!」 「セックスじゃない?」  と音丸が一歩踏み出したのは、頬を紅潮させて激怒する天然パーマに少しばかり兆してしまったからである。  旅立つ前にもう一度……とこの際、完全に龍平の意志に反することを思っている。下司の極みである。  それを察したのかどうか、龍平は引き戸を開けて廊下の外に出た。 「……僕はもう会わないって言いたかっただけだ。じゃあね。元気で行ってらっしゃい。さよなら」  また音丸がその腕を掴もうとするのを見事にすり抜けて、龍平は廊下を走り去った。階段を駆け下りて行く音が聞こえる。音丸はもう動くことが出来なかった。引き止めなければ、という心の声を身体は全く無視していた。  ともあれ、龍平のこれは見事なサプライズだった。

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