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第34話 地獄堕ち

 音丸が龍平に別れを告げられている頃、三弦も咲也に別れを告げられていた。  最寄りはJR駅である。線路の高架が見えるまでには何とか打ち明けなければと思っていた。  横を歩く咲也は、大学祭で会った頃よりはふっくらとして肌に血の気も戻っている。実家で健康を取り戻しつつあるのだろう。 「咲也さんの本名は、安住(あずみ)さくらさんなんだよね。前に芸協のホームページで見たんだ。もう芸名じゃなく本名のさくらさんて呼んだ方がいいよね」 「そうですね。お気遣いいただいて、ありがとうございます」 「あの……さくらさんの新しい連絡先教えてくれる?」  とりあえずそこからだ。勇気を振り絞って言った言葉に返って来たのは「ごめんなさい」だった。 「もう全部クリアしたくて機種変したの。三弦さんには悪いけど、落語のことはもう考えたくないから」 「ぼ、僕は別に落語とか……柏家仁平は祖父だけど……で、でもさくらさんが嫌ならもう祖父とはつきあわないし落研だって辞めるから……」 「ううん、そんなことしないで。でも、ありがとう」  と咲也はうっすら微笑んでいる。 「私ね、ろくでもない男とつきあってたの。先輩だからって勝手に尊敬なんかしちゃって。実はとてもくだらない男だったのに」 「し、失恋?」  と訪ねたのは知りたいからではなく絶望に捕われないためだった。何か話していないとどん底に落ちる。 「あんな男より、三弦さんみたいな真面目で優しい人とつきあえばよかった」 「じゃあ……」  と隙あらば心に割り込もうとする三弦を、咲也はまた笑いながら見ている。 「女の落語家なんて苦労するに決まっている。覚悟して入門したはずなのに、落語の修行そっちのけで彼氏なんか作って……山の落語会で酷い目に遭ったのだって、自業自得だと思う」 「さくらさんのせいじゃないよ! 本当にろくでもない男っているし……」 「ううん。彼氏に甘えて自分で考えることを止めてしまった。覚悟なんか全然足りなかった。だからもう大人しく実家で暮らすつもり。恋愛とか男女交際とか、そういうのは当分いらない」 「じゃ、じゃあ、友達として……富山と長野は新幹線で一時間ちょっとだよ。いつでも会えるし、友達として連絡先を教えて欲しい」 「ごめんね。三弦さんは落研を辞めたりしないで。大学生活を楽しんでね」  まっすぐ三弦に向き直って頭を下げる咲也である。三弦の必死の言葉はまるで響いていないのだった。  気がつけば二人は既に駅構内に居る。ちょうどサラリーマンやOLの退勤時間だった。高い天井に人々の話し声がざわざわと響いている。ネクタイにスーツ姿の男が三弦の肩にぶつかって舌打ちをして雑踏に消えて行く。 「さようなら。お世話になりました」  咲也はまた頭を下げて改札口を入って行く。三弦は何も言えないでその小さな背中を見送っていた。「さよなら」は言いたくない。では「元気で」か?  迷っているうちに咲也の姿は人混みに飲み込まれて消えてしまった。振り向きもしない。  しょせん自分はその程度の存在だったのだ。  頬にぽろりと涙がこぼれた。  落語家協会主催の学校公演ツアーは六泊七日の予定である。  羽田空港から広島空港に飛び福山市に移動して中学、高校で昼夜公演。一泊して新幹線で山口市に下り大ホールに高校四校を呼んで昼夜公演ここは二泊。それから九州新幹線で博多と久留米に各一泊。更に船で五島列島に渡って一泊。また船と飛行機で帰京する。  ツアーメンバーには音羽亭弦蔵師匠が加わっていた。音丸にとって問題は弦蔵師匠ではなく博多公演だった。地獄堕ちのきっかけである。いや〝地獄堕ち〟は大袈裟だが。  音丸は福岡県の博多出身なのである。この地に贔屓客は多い。昔馴染みもいる。  かつての不良仲間がそれなりに更生して、小さな会社の社長になって社員や取引先で客席を埋めてくれるのはありがたい限りである。  だが、楽屋に訪ねて来る昔馴染みの誰もが懐かしいかと言えば、そんなこともない。  かつて自分をホモっぽいといじめた連中が、落語家になった途端に旧友面で楽屋を訪ねて来る。「あのホモが」「こげん立派に」と連発するのは誉め言葉のつもりらしい。  そんな連中にも敬意を表せたのは仁平師匠の薫陶の賜物ではあるが、今回ばかりはきつかった。笑顔もなかなか続くものではない。  それを察したのかどうか、例によって昇り龍の革ジャン姿の弦蔵師匠は地方銘菓のせんぺい(せんべいではない)をぼりぼり食べながら、 「おう、あんちゃん。早く呑みに行こうぜ」  と旧友もどきに取り囲まれた音丸にわざわざ声をかける。 「こりゃ失礼。音丸のお友だちですか? お忙しいのに、ありがとうございます」  と、にっこり凄んだだけで騒いでいた連中はそそくさと立ち去ったのだった。  音丸はその助け舟に礼を言う気力もなく、パイプ椅子にがっくり腰を落とすのだった。    またもテーブルに残っている地元銘菓の箱をスーツケースに詰め込んでいる強面師匠は、 「落語家になっただけで変な親戚や知り合いが増えて困るよな」  と知った風に言うのだった。  そして音丸を連れ出したのはゲイバーだった。ゲイオンリーではなくノンケも女性も楽しめるきらびやかなショーパブである。ボックス席で音丸の隣に座ったドレスの女は男だった。  まさかさっきの連中の〝ホモ〟発言を聞いてここに連れて来たのか?  とうとう同性愛者だとばれた?  疑心暗鬼で酒も進めば心も荒む。  仮にばれたとしてもこの師匠なら自分を排斥したりはしないだろう。  と思うそばから、いやわからないと否定する。  今回のキャンセル騒動で、人格者と思っていた老師匠方が平気で音丸を無視していた。  気もそぞろに華やかなショーを眺めているうちに香水の香りに気がついた。  離れたボックス席の男性客がちらちらこちらを見ている。どことなく垢抜けたスーツ姿の好男子である。ネクタイがそそられる。香りはそちらから漂ってくるようだった。  香水は興奮して体温が上がれば香りも強まる。離れているのに匂うのはつけ過ぎだろう。身を寄せてほのかに香るのがベストである。奴のように……って誰だ奴とは? 「おう、次の店に行くぞ」  と弦蔵師匠が連れているのは和装の中年女性だった。まごうかたなき女性である。この店の他に中州に何店舗も経営している飲食店オーナーだという。 「今度はちゃんとしたお姉ちゃんのいる店だぞ」  と二軒目に行く間に音丸は弦蔵師匠と袂を分かっていた。  どちらかというと自分から香水の好男子を促してタクシーに乗り込んでいた。そこは地元出身であるからして師匠方とは顔を合わせないだろう郊外のラブホテルに乗り付けていた。    満を持してワイシャツの襟からネクタイを引き抜き、猥雑極まりない行為に励んでいた。  それはもうあの上品な帰国子女相手にはとても出来ない情痴の限りを尽くした夜だった。

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