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第35話 地獄堕ち

 夜明け前にツアーの宿泊先ホテルに戻って荷物をまとめて次の公演地、久留米に向かう。その新幹線の中で服か身体か自分からあの香水が匂うのに気づいて、やさぐれた気分に陥る。  これまで東京や博多で男遊びをしたことはなかった。  寄席の近くには新宿二丁目があったが、そここそ禁忌だった。どこに知り合いがいるか知れたものではない。  博多には〝ホモの柏家音丸〟を広めかねない連中が存在している。用心にも用心を重ねていたのにこの体たらく。  落ち込む間もなく久留米でもその種の店で相手を見つけてラブホに入る。あの香水男が九州全土の安心安全なその手の店をレクチャーしてくれたせいもある。五島列島にも、もちろん同性愛者はいた。 「今回の旅の仕事は楽しかったなあ、あんちゃん」  空港で東京に戻る飛行機を待つ間、弦蔵師匠は同じことを何度も繰り返した。夜毎音丸を連れ出しては途中で別れていたが、互いに大人だからと詮索しなかったのはありがたい。 「音丸は堅いって噂だけどよ。そんじゃ疲れんだろうよ。たまにはお姉ちゃんと遊ばなきゃ」  と言う弦蔵師匠は各地の打ち上げではぐれた音丸も、女性とどこかにしけ込んだと思ったらしい。相手が男性とばれなかったのは不幸中の幸いだった。    旅が終われば、かねてより懸案の仁平一門会がある。そして年末興行、正月興行と続く。何かと物入りな季節である。お歳暮やお年玉があるのだ。  お歳暮は例によってアポなしで世話になった師匠方の家を経巡る。  音丸にはあの謝罪行脚の記憶がまだ新しく、もう完全に痕も消えた打撲傷やら肩口の歯形やらに鈍い痛みを覚えながらあちこち訪ね歩くのだった。 〈おまえに会いたい〉  あの時送ったメッセージを見て(そもそもLINEは殆ど使わないから、残っている最新メッセージがこれだったりする)また送信してしまおうかと気弱になっている。  お年玉もまた痛い出費である。落語界では二つ目や真打は前座にお年玉を配る風習がある。そもそも前座は無給なのだ。先輩に奢ってもらって生きている。だから新年のお年玉は貴重な収入源である。噺家は誰もがそれを経験しているから、名前も知らない前座にもお年玉だけは渡している。  銀行で紙幣のピン札を下ろして来て、部屋でポチ袋に詰める作業をしていると、階下から呼ばわる声がする。 「柏家さん‼ お客さん‼」  先程から皮をこねて水餃子を作っていた中国人である。落語家は屋号亭号でなく名前で呼ぶべきと知らないのは外国人だけではなく日本人にも多い。  すわとばかりに立ち上がり階段を駆け下りたが、玄関先に立っているのは天然パーマではなかった。  柾目家咲也に完膚なきまでにふられた三弦はと言えば、長野に戻って以来寝袋に入って泣き暮らすゾンビと化した。  音丸を招いた時から寝袋で寝るのが気に入っていた。全身を包み守られているようで、とても落ち着いて眠れるのだ。  しかし音丸ときたら、わざわざ三弦を東京に呼び寄せて失恋させたと恨みに思う。八つ当たりだと知りつつも他に何を恨めばいいのかわからなかった。渾身の蜂の子おにぎりもろくに食べてくれなかったし。  そんなこんなで数日が過ぎ、ようやく大学に行こうと思った時にまず向かったのは銭湯だった。背中を丸めて風呂道具を抱えて月の湯に赴く。 「どうしただ? 顔がむくんどるに」  番台の店主に言われて力なく笑う。 「今度、東京に柏家仁平の一門会を見に行くだよ。加瀬先生にチケットを頼んだだよ」  落研に入ってから知ったのだが、この店主も落語ファンだった。以前は落研の学生たちに銭湯を勉強会の会場として提供していたという。件の落語の出来る先輩が辞めてからは勉強会も途絶えていた。  湯船に浸かって一門会に行くか考えるが、もはや落語などに近づく気にもなれなかった。何なら本当に落語研究会も辞めてしまおうかと捨て鉢な気分である。  帰り際、番台の店主にまた声をかけられる。来年にでも銭湯で落語会の開催を考えているという。 「ほいで、柏家仁平さんみたいな大御所はこんな場所にも来てくれるだか?」 「大丈夫ですよ。祖父も近所の銭湯で落語会をやってました。時間があれば来ると思いますけど。ただ交通費はいただくかと」  落語に関してはもう何も聞きたくないと思いながらも、礼儀正しさが適当な回答を許さない。 「そこは任せとけや。商店街にも声をかけとるで、開催が決まりゃあ予算は分捕れるで」  店主の夢の落語会計画を聞き終えて、湯冷めする前にようよう銭湯を出る三弦だった。  翌日きれいな身体で大学に出向く。講義でも受けていれば咲也のことを考えなくて済む。  だが大教室の席に着くなり近づいて来たのは、山野草研究会の二人組だった。尖った顎と脂性の男。 「蓮見くん、遊ばない?」 「授業が終わったら三人で……」  と尖った顎が見やるのは、教室の入り口に現れた茶髪の大塚ジュリだった。こちらにはまだ気づいていないのに、脂性が「ジュリ!」と手を振ってしまう。 「3Pやってみたかってん」  大きな声で言っているところに大塚ジュリはためらいもなく近づいて来る。  三弦はすかさず立ち上がると、ヤリマンジュリの脇をすり抜けて教室を出てしまう。  ああいう連中は弱っている人間につけ込む術を心得ている。反抗しないでいるとどこまででも付け上がってくる。などとかつてのいじめを執念深く思い出しては恨んでみる。  それさえ咲也のことを考えずに済むように心のどこかで調整しているらしい。  この際、逃げ込むのは落語研究会の部室だった。退部とか考えていたくせに。  畳の部屋で行儀悪くも座布団を枕に寝転んで、散らばっている本や漫画を眺めて過ごす。  そんな三弦の背後では、大学祭の落語会に感化されて入部したばかりの女子部員たちが並んで正座している。合唱よろしく前座噺を声を揃えて暗唱している。  頭の中で恨みつらみを捏ね繰り回していた三弦は、新入部員たちが言い淀んだ台詞の先を、 「栴檀は双葉より芳しといい、蛇は寸にしてその気を現すといいます!」  と乱暴に言い放つ。  咲也はもっとすらすら言ってるぞ! と思う自分がまた腹立たしい。プロと学生を比べてどうする?  落研にいればどうしても咲也を思い出さずにはいられない。  かくして三弦は行く場所もなくなり、ただ部屋に閉じこもるばかりだった。風呂にも入らず薄汚れた姿で寝袋にくるまって終日ごろごろしている。これまでに経験のない苦しみに、地獄の底に堕ちた気分だった。  傍から見れば単なる失恋のショックに過ぎないのだが。

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