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第36話 あらたまの

12 あらたまの 「お元気ですか。あにさん……じゃないですね。音丸さん」  玄関先でこちらを見上げているのは、ボブヘアになった咲也だった。  スカートまで履いている。もう少年に間違えられることもあるまい。まるで海外旅行に出かけるような大きなスーツケースを引いている。  例によって共同炊事場に案内する。  咲也が大きなスーツケースを開くと中には一升瓶の箱がぎっしり詰まっていた。 「田舎の新酒が出たのでお持ちしました」  と音丸に一本差し出す。  遠慮せずに受け取りながらも呆れた声が出てしまう。 「一体何本持って来たんだ。相当重かったろう」 「せっかくですから師匠方にも召し上がっていただきたくて」  と笑うと頬に小さくえくぼが浮かぶ。そういえば楽屋入りした頃は、この娘の頬にはいつもえくぼがあった。それがいつから消えたのか音丸は知らない。 「それで、あにさんにお願いがあるんです。機種変した時に住所録をコピーしなかったので師匠方の連絡先がわからないんです。教えていただけますか?」 「……そこまで徹底して忘れようとしたのか?」 「ええ。いくら何でもやり過ぎましたけど」  またしても笑う咲也である。  音丸は部屋にスマホを取りに戻りながら憮然としている。  もしや、あいつもとっくに機種変しているのではないか?   と今更なことを思っている。知りたければ自分から連絡すればいいのだが。  ついでにポチ袋なども持って階下へ戻ると、中国人の水餃子が出来上がったところだった。小皿にいくつかのせて咲也の前に差し出しながら、 「これ、柏家さんにやるよ」  と、にこにこしている。そして山盛りの水餃子の入った丼鉢を抱えて部屋に帰って行った。遅めの昼食なのだろう。  前に三弦が作って来た大量の蜂の子のおにぎりはこの中国人が大喜びで食べてくれた。そのお礼かも知れない。  音丸は流しに並んでいるコップを二つ取って調理台に並べた。 「咲也もいけるんだろう?」  新酒の封を切るとぷんと甘い香りが漂う。建物全体に満ちているエスニックな香りに比べて遠慮がちではあるが強い主張をしている。  とろりとした液体をコップに注いで元前座に渡す。 「二つ目のあにさんに注いでもらうなんて、もったいないです」  とグラスを掲げて咲也は深々と頭を下げるのだった。  そして音丸が酒を味わうのを見ながら、 「先日は三弦さんがいらしたので、ちゃんと申し上げられなくて失礼しました。私や桐也のせいで、あにさんには本当にとんでもないご迷惑を……」  言いかけた咲也の言葉を遮って、 「いい酒だ」  と空けたグラスをテーブルに置いた。咲也を見やった目はかなり鋭かったかも知れない。 「その話はもういい。終わったことだ」 「でも、どうしたって謝らなければなりません。音丸あにさんは楽屋で酷い目に……」 「それで、どの師匠の連絡先が知りたいんだ?」  とスマートフォンを操作する。咲也はそれ以上の謝罪は諦めたらしく、何人かの師匠や関係者の名前を上げるのだった。  連絡先交換が終わると、咲也は酒を一口吞んで語り始めた。 「お陰様で今は美容室で働いています。資格だけで実務経験ゼロですから、また前座修行みたいなものです」  そうしてバッグから現金書留の封筒を出すと、音丸の前に差し出した。  宛先が〝安住さくら様〟となっているのが咲也の本名らしい。差出人は〝菅谷百合絵〟だった。 「これだけはお話したいんです」 「百合絵さんが何か?」  尋ねるのに咲也は、こくりと頷いた。 「あにさんは百合絵さんから、私と桐也のことをお聞きになりましたか?」 「まあ……」  と音丸はグラスの新酒をぐいと吞む。  咲也が辞めて以来、百合絵は落語会で会うたびに咲也と桐也の交際について詳細に話して聞かせるのだった。音丸はあからさまに嫌な顔をしたが、百合絵の勢いは止まらなかった。 「私が全て伝えてくださるようにお願いしたんです。もしまた桐也が変なことを企んでも、あにさんが全てご存知なら、防げることもあるかと思って」 「ああ、それで……」  良家のお嬢様にあるまじきゴシップ話と眉をひそめていたが、ようやくその真意を知った。 「私が妊娠して、子供を堕胎したこともご存知ですよね」 「ああ。聞いた」  山の仕事から帰京した咲也はすぐに産婦人科病院で検診を受けて妊娠が判明したという。    出産ができるはずもなく堕胎を決意したが、その同意書に判子をもらい手術費用の折半を桐也と交渉しなければならない。  けれど桐也は咲也に会うのを避けていた。楽屋では忙しいふりをして逃げるし、家は前座仲間でルームシェアしているから、他の前座に咲也の対応を任せて自分は顔を出さない。  女の身体には時間が流れている。男が逃げ回っているうちにも胎内で子供は育っていく。胎児の掻爬には期限があるのだ。   仕方なく咲也は一人で病院に赴いて手術を済ませた。 「同意書には三文判を買って判子を押しました。自分で桐也の本名を書いて……」  たぶんそれはこの世で最も悲しい私文書偽造だろう。  二人で拵えたはずのものを闇に葬り去るためにたった一人で罪を犯す。  咲也は目を真っ赤にしていたが涙を流すことなく掌でぐいと拭って続けた。 「費用は親に借りました。手術の後、身体は治ったのにどうしても起き上がれなくて……男性恐怖症の上に鬱状態で……」  黙って頷くしかない音丸である。 「実家に帰って寝てばかりいました。それまでも百合絵さんには時々電話で話を聞いてもらっていたんですけど……」  百合絵は桐也から手術費用を取り立てると言い出したらしい。 「私は断ったんです。もうあんな男のことは考えたくなかったし。でも百合絵さんは、罪は二人で背負うべきだっておっしゃって」 「まったくだ。責任を女一人に押し付ける男はクズだな」  と新酒も三杯目になった音丸は少しばかり口が軽くなっている。  水餃子は日本酒に合うとは言い難かったが、とりあえず食べている。  大きな調理台の角を挟んで座っている咲也と音丸である。ここなら日本語があまり堪能ではない外国人が多いから込み入った話はむしろ外の喫茶店などより安心なのだ。  時々、外国人住人が食器を洗いに降りて来るが、二人の話に殆ど興味がない風である。 「百合絵さんは手術費用を送ってくれたのか」  と音丸は台にのっている現金書留の封筒を手に取った。中身は既に空である。 「ええ、全額。桐也から取り立てて送ってくださいました」  坂上焙煎珈琲店で桐也を奥の席に追い詰めていた百合絵の姿を思い出す。あの時、既に百合絵は咲也のためにも動いていたのか。 「手術費用の半額と慰謝料として残り半額。つまり全額を桐也から取り立てて、現金書留で送ってくださったんです」 「銀行振込じゃなかったのか」 「私もそう思いました。口座番号を教えることも出来たのに。何でわざわざ現金書留かなって」  有能な百合絵にしては手間をかけたものである。 「でも見たら……シワシワのお札が何枚も、万札だけじゃなく千円札まであるんですよ。たぶん桐也があちこちに借りて歩いたお金を、そのまんま送ってくださったんですよ」  と言葉を切って音丸の目を見つめた。 「つまり、のらりくらりと逃げる桐也を追い詰めて尻を叩いて、全額!!」  今や咲也は目を輝かせて笑い出さんばかりである。 「全額厳しく取り立ててくださったんですよ!!」 「佐野槌の女将か」  言った途端に咲也は爆笑した。 〝文七元結〟に登場する吉原の大店、佐野槌の女将はあるいは百合絵のような女かも知れない。 「あんな立派な女性もいるのに……私ったら。本当に情けないです。百合絵さんみたいにちゃんと自分で考えて、自分で行動できる女性にならなきゃ駄目だって思うんです」 「まあ……あの人は実に大した人だよ」 「そんな方に応援されているあにさんも素晴らしいと思います」 「どうだかね。感謝はしているが」  

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