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第37話 あらたまの

 ベトナム人夫婦が何やら食材を抱えて調理に来たのを機に、音丸は先程持って来たポチ袋を差し出した。お年玉よりは多めに新札を入れてある。 「少しだが使ってくれ。新生活は何かと物入りだろう」 「ああ……もうお正月の準備をなさってたんですね。こういうお年玉で食いつないだものです」  嬉しそうにポチ袋を押し戴く咲也は、まるで遠い昔の思い出を語っているかのようだった。 「それと一門会のチケットだ。ご家族の分も。よかったらまた落語を聞いてみてくれ」  とチケットも何枚か渡した。  海外旅行に出かけるかのように巨大なスーツケースをごろごろと引きずって行く咲也いや安住さくらを見送った。  しかし暮れの仁平一門会に安住さくらは来なかった。 〈あいにく仕事の休みがとれなかったので、いただいたチケットは落語のお好きなご近所の方に差し上げました。音丸さんの〝文七元結〟に泣いたそうです。私もいつか拝聴したいです〉  とメッセージが届いた。  もう一人、来てない奴がいた。  チケットを送り付けようかどうしようか散々悩んで、 「百合絵さん、龍平はチケットを持って……?」 「お売りしましたよ。私がお預かりしている中から一枚」  と聞いて待ちかねていたのだが。  もう二度とあいつは来ないだろう。  わかっていながらコアなファンのジジババ四人組の後ろに天然パーマがいないか何度も確かめずにはいられなかった。 〝文七元結〟もどうにも納得できない出来だった。会場からすすり泣きの声は聞こえていたが。せいぜいが佐野槌の女将をこの上もなく実感を込めて演じられただけだった。  寄席の正月初席は真打の顔見世興行である。  年に一度、正月に晴れ着で寄席に来るのを年中行事にしている客もいる。  客席は普段とは打って変って満員御礼の賑わいである。  柏家仁平師匠は上野の寄席で初席一部の主任を任されていた。  例年のごとく元旦の朝から師匠宅に弟子全員が集まってお屠蘇とお節料理で新年を祝う。  師匠から弟子全員にお年玉も渡される。  一番弟子の徳丸、三番弟子の音丸、四番弟子のこっぱが集っている。  二番弟子だったなっぱは廃業して今は老人介護センターで働いている。正月も仕事なのは介護ワーカーも同じらしい。元旦には間に合わないが例年、松の内には挨拶に来るのだった。  かつてスマホのアドレス帳にあるなっぱの芸名を本名に変えたことを思い出して、音丸が〝柾目家咲也〟を〝安住さくら〟に変えたのは元旦のことだった。  そして一門総出で寄席の楽屋に入る。二つ目の音丸に出番はないが袖で兄弟子や師匠の高座を勉強する。  どちらかといえば前座たちにお年玉を配り師匠方に挨拶しつつ酒をつきあうのが主な業務である。前座こっぱはもちろん楽屋働きである。  第一部が終われば打ち上げである。ただ昼間ではあるし仁平師匠は下戸だから打ち上げも短めに切り上げる。  音丸は打ち上げの途中で脇の仕事に出かけて行く。二つ目なのに元旦から仕事があるのはありがたい限りである。  仁平師匠はお茶で栗きんとんなどを摘みながら笑顔が止まらない。 「うちの弟子たちは元旦から忙しくて、誰も楽屋に残らないんだから。困っちまうよ」  と同輩の師匠に自慢げにぼやいていた。  というのは、残って前座仕事をしていた(そして、お年玉をどっさりもらった)こっぱの報告である。  昨年は自分のせいで仁平師匠にも肩身の狭い思いをさせた。せいぜい自慢できるように忙しくしなければと気持ちを新たにする。地獄落ちなどしている場合ではないのだ。  浅草の初席では柾目家逸馬師匠が三部のトリだった。  協会は違うが昨年はあの山の仕事を始めとして共演が多かった。  そして何より〝文七元結〟の稽古をつけてもらっている。新年の挨拶に楽屋に顔を出さねばなるまい。重い足を運んだのは正月も三日になってからである。  結果、打ち上げにも参加することになる。幸か不幸か音丸は翌日仕事がなかった。となれば、酒好きの逸馬師匠のはしご酒につきあう羽目になる。  浅草から上野に移動して他の落語家とも合流して大所帯となり、新宿に移って正月でも空いている店を探してさすらう。  新宿の中華料理店で出て来た天津飯を上着にぶちまけたのは前座の桐也だった。店員から受け取ってテーブルに置こうとした手を滑らせたのだ。  黒いパーカーの肩から膝まで甘酢のトロミとご飯粒の滝を浴びて音丸は身動きもしなかった。  そもそも桐也は楽屋で音丸の顔を見るなり、 「あけましておめでとうございます!」  と最敬礼をして来たのだ。  正月の慣例であるから他の前座同様、桐也にもポチ袋を渡したが「先にまず言うべきことがあるんじゃないか?」と嫌味のひとつも言いたかった。  自分こそ桐也から謝罪金をもらいたい程である。  釈然としない気分でいたのが、揚句にこの仕打ちである。  周囲が「大変だ」「大丈夫か」と騒ぐ中で地蔵のように硬直していた。 「あにさん、脱いで脱いで。シミになる前に洗って来ます。コインランドリーに行きますから」  桐也が音丸の上着を剥ぎ取るようにして、 「寒かったら僕のを着ててください」  と必死の形相で店を飛び出したのは、多少はあの騒ぎに対する詫びの気持ちもあったのだろう。だが桐也のジャケットは音丸が着るには小さ過ぎた。  そして今更思い出してしまう。ここからあの天然パーマの部屋はとても近いことを。  あそこに上着が一着置いてある。あの夢の夜を過ごした翌日は陽気が良かったので着ないで帰ったのだ。  今ならあそこに行って取って戻る時間はある。  音丸は黙って店を抜け出した。

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