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第38話 寒い部屋

13 寒い部屋  三弦は冬休みが始まるなり横浜の実家に帰った。  夏休みに数日しか帰省しなかった埋め合わせもあるが、自分で何もしなくともご飯が出て来て服が洗濯されて風呂が焚かれている生活が恋しかったせいもある。  六畳一間に寝袋で転がっていた地獄から天国である。しかも信越地方に比べると関東地方ははるかに暖かいのだ。  タワーマンションの十六階にある実家は遠く太平洋も望める景勝である。だが高所恐怖症気味の三弦には少々落ち着かない。  ここは三弦が長野に引っ越してから両親が購入したもので、それまでは賃貸マンションの一階に暮らしていた。地に足の着いた生活だったのだ。  実家を出た時にはおむつを着けてばぶばぶ言うだけだった異父妹るりは既に三才である。活発に走り回っては平気でベランダにも出ている。その度に「危ない」と室内に連れ戻す三弦を「お兄ちゃんの怖がり!」と囃し立てたりする。  異父妹が生まれてから父母は殊更に三弦を〝お兄ちゃん〟と呼ぶようになっていた。何かと配慮のいる生さぬ仲の親子だが、異父妹本人からそう呼ばれるのは初めてだった。  冬休み中は横浜にある自動車学校に通うことにする。山に山野草の写真を撮りに入るたびに、免許があれば便利だと感じていた。  そんな話を覚えていたのか義父の大盤振る舞いで教習所の学費を出してもらえることになったのだ。  気詰まりな実家から毎日通える場所があるのは有難いことだった。  けれど年末年始は教習所も休みである。いよいよ高層マンションに閉じ込められることになる。  元旦は朝から家族全員でお屠蘇を吞んで母の手作りおせち料理を食べる。 「昔はお正月でもカップ麺で済ませていたよ。お母さんのお陰でちゃんとしたお節料理が食べられる」  と鼻の下を伸ばす義父である。  この義父は明け方パジャマ姿でるりを抱いてベランダに立ち、 「ほーら、るり。初日の出だぞ」 「初日の出って?」 「今年初めてのお日さまだよ」  と海の向こうに昇る朝日を見せていた。  台所では既に母が料理を始めているらしく、ことことと何やら音がして昆布出汁の香りが漂っていた。  トイレに起きた三弦はそんな家庭の様子を眺めてまた眠りに就いたのだ。  元旦はご馳走を食べて寝正月になった。二日は家族四人で初詣に出かけた。  そして三日目になるともうやることはなかった。  自室でごろごろしていると、LINEにメッセージが届いた。  記憶にないちびドラゴンのアイコンである。中園龍平とは誰だったか?  〈あけましておめでとうございます〉  と羽織袴姿のちびドラゴンが正座している。今年は辰年ではなかったはずだが? 〈みっちゃんは何してるの? 僕はこれから寄席の初席に行くつもりだけど。一緒にどう?〉  ようやく思い出した。あの天然パーマの美青年である。音丸の勉強会で隣り合って少し話したのだ。  実家の気まずさから逃げるように都内の寄席に出かけた。  中園龍平の希望で柏家仁平が主任を務める上野の初席一部に出かけた。午前十一時からの開演時間は過ぎていたが、祖父の出番には充分間に合う。  都心に向かう電車の中で、仁平一門の正月を思い出していた。毎年弟子たちが賑やかに集まってお屠蘇を飲み、お節料理を食べたものである。そしてお年玉である。祖父だけでなく真打の徳丸も、なっぱ、たっぱ、三弦などにポチ袋を配ったものだった。 「お正月はお年玉の稼ぎ時なんだ。僕のは母が貯金しちゃったけど。前座さんはそれが生活費になるから大変なんだよ」  高座返しに出て来る祖父の四番弟子こっぱを示しながら龍平に話して聞かせるのだった。 「今日は音丸さん出演しないんだね。家でのんびりしてるのかな?」 「ううん。音丸さんみたいな人気の二つ目は忙しいよ。寄席に出なくてもお正月は落語会が多いから、かけ持ちしたりして。みんなが休んでる時に忙しいのが落語家なんだ」 「ふうん。そうなのか」  龍平は落語界のことを知りたくてたまらないらしく高座の落語家が変わる短い間にも、いろいろ質問して来るのだった。 「ねえ、終わったらお茶しようよ。もっといろいろ聞きたいや」  と、きらきらした瞳で見つめられてどぎまぎする。  溢れるようなこの色気は何なんだと思わずにはいられない。  晴れ渡った空に聳え立つ欅の大木は、すっかり葉を落としている。小さな児童公園のすぐ横が、中園龍平が住むワンルームマンションだった。  外階段を上がる間、児童公園で羽根つきをしたり、凧揚げをしている親子が見える。 「この公園いつもは誰もいないのに。日本のお正月って驚きだよね。僕ずっとアメリカにいたから日本に戻って来て驚いたよ」  と龍平は笑って三弦を振り返る。  寄席を出てカフェにでも入るつもりだったが、飲食店はどこも殺気立つほどの混雑ぶりだった。すっかり毒気を抜かれて、誘われるままに龍平の部屋に来たのだった。  手土産のひとつも持って来なかった三弦は、途中コンビニに寄ってビール(実は発泡酒)や肴を買い込んでガサガサとレジ袋をぶら下げていたが、玄関に入った途端に後悔した。  ワンルームの玄関先にある小さなキッチンには高価な吟醸酒や芋焼酎の瓶が並んでいるのだ。  実は中園龍平はコンビニの安酒など飲まない高給取りなのか? 疑問に答えるかのように、 「会社にお歳暮に来たのをくじ引きでもらったんだ」  と玄関を上がって「どうぞ」と促す。  目ぼしい家具といえば、ベッドにハンガーラックに座卓ぐらいのシンプルな部屋である。  コートを脱いでから三弦は「お邪魔します」と靴を脱いで上がった。そして振り向いて靴を揃える。  リモコンで暖房を入れながらその様子を見ていた龍平は、 「何で後ろ向きに靴を脱いで上がらないの? いちいち振り向いて靴を直さなくて済むのに」 「そんなのお行儀が悪いよ。先様にお尻を向けて玄関を上がるなんて失礼じゃん」  という三弦の答えは祖母に聞いたものである。 「やっばり日本の正しい礼儀なんだ。同じことする人がいて、いつも不思議に思ってたんだ」  クッションを渡されて、ベッドに背中を預けて腰を下ろすよう勧められる。三弦は何となくそのクッションを膝に抱いて正座してしまう。 「やっぱり正座が正しい日本の礼儀だよね」  と尊敬の眼差しで見られてあわてて足を崩す。  こうした気取った所作がきっと同級生たちには鼻につくのだろう。けれど龍平には他意はなかったようで、 「僕は小学校に入るまでは日本で育ったんだよ。大学に入る時に戻って来たから、自分ではちゃんと日本人のつもりだけど。人には君はビミョーに違うって言われる」  などと小さなキッチンでコーヒーを淹れている。  言われてみれば中園龍平は日系アメリカ人に見えなくもない。小首をかしげて肩をすくめるのは完全にネイティブの仕草である。  他の者が感じる微妙な違和感とは、たぶん落語家の家庭に育った自分にもあるのだろう。 「落語家さんの家で育ったなんて羨ましいな。正しい日本の礼儀を習って育ったんだよね」  だが逆に龍平はその違和感を羨むのだった。  飲み物がコーヒーから発泡酒に変わる頃には、三弦は自分の失恋について話していた。 「へえ。みっちゃんも落語家が好きなんだ?」 「も?」 「違う。みっちゃんが、いや、みっちゃんは、だね。日本語はむずかしいね」  ここぞとばかりに詮索する自分に三弦は内心忸怩たる思いである。つい龍平から目をそらすと、にわかにヴーヴーと振動音が聞こえた。  床に置いた龍平のスマートフォンが呻っているのだ。 「ごめん。うるさいよね」  と龍平はそれを手に取ると見もしないで電源を切った。  部屋はなかなか暖房が効かず、うすら寒い。  三弦は膝に置いたクッションを両腕で抱きながら、柾目家咲也にふられた経緯を話して聞かせる。

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