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第39話 寒い部屋

 音丸はあの部屋の合鍵は持っていた。これを返すいい機会だと思う一方で、また奴と元のさやに納まれないかと淡い望みを抱かないでもなかった。  地下鉄でマンションに向かう間に何度か電話をかけた。  原始人だと思われないように。  けれど全くつながらず、メッセージを送るも、これも既読がつかない。外階段を上がる間に再度電話をかけてみたが同じことだった。  そこまで拒絶されているのかと絶望しそうになり発想を変える。  両親のいる実家に帰省しているのかも知れない。実家はきっと電波状況がとてつもなく悪いのだ。  留守中に勝手に部屋に上がるのは気が進まなかったが仕方がない。念のためにドアチャイムを鳴らしてから合鍵を回してドアを開けた。  狭いワンルームは外気と大差ない寒さだった。けれど室内には煌々と明りが点いている。点灯したまま帰省したのかと疑いながら、誰にともなく声をかける。 「ごめんください……」  靴を脱いで玄関を上がればベッドに人がもぐり込んでいるのが見える。室内にはビールの缶や吟醸酒の瓶、スナック菓子の空き袋が散らばっている。酒宴の果てに酔い潰れて寝たらしい。 「すまん。上着を取りに来た」  改めて声をかけるとベッドの中からもぞもぞと顔を出したのは、 「あれ、たっぱちゃん?」  と蓮見三弦だった。親の躾通りに裸でベッドに入っていたのが、 「じゃなくて、音丸さんだ……ごめん」  と、寝ぼけ眼で下着の中に手を入れて「おしっこ」とトイレに向かう。  狐につままれた気分でベッド脇のハンガーラックから黒いスタジアムジャンパーを取ったところで、布団の中にもう一人いることに気がついた。  艶のある漆黒の巻き毛が枕の上にある。 「何? みっちゃん」  と身を起こしてこちらを見たのは中園龍平だった。振り返った肩口から背筋を経て腰に到る裸身の色気ときたら無敵である。  二人が裸でベッドに寝ていたと理解するのと、龍平の濡れた瞳がにわかに瞬いて「え?」と怪訝な表情に変わったのは殆ど同時だった。  音丸は何も考えず上着を着ながら玄関に向かった。  黙っていても身体はやるべきことを知っていた。靴を履いてドアを開けて部屋を出る。そして打ち上げ会場に戻る。ただそれだけでいいのだ。  三弦は龍平の瞳が眩しいようで、失恋話の合間にも視線を外しては部屋を見回していた。  玄関の靴箱の上には音丸のサイン入り色紙が額装して飾られている。  その横には何故かクロユリの写真も飾ってある。花弁の黒さを見るにミヤマクロユリではなくエゾクロユリだろう。  キッチンハンガーにかかっている手拭いは藍色と抹茶色、どちらも音丸のものである。  ベッドの横にあるハンガーラックにかかっている黒いジャケットはどう見ても龍平のサイズではない。  ついでに言えばキッチンに大切そうに置いてある高級芋焼酎は、音丸が大好きな銘柄である。  この部屋には音丸の気配しかないではないか。  そうか。やっばり音丸と龍平はそうだったのか……とまた下衆の勘繰りをする。 「みっちゃんは失恋したのか。僕もだけどさ」  と龍平が思いがけないことを言い出す。 「え、失恋て……ふられたの?」  龍平は「別れた」と頷いてキッチンの棚から吟醸酒を持って来る(やはり芋焼酎には手を付けないんだなと思った記憶はある)。二人のグラスに注いで渡すと、 「ここのエアコン古いから効きが遅いんだ。呑んであったまってよ」  とリモコンボタンを押して温度を上げている。三弦も寒さしのぎのつもりで吟醸酒を一口吞むと、 「ねえ。別れたって、何で?」  つい遠慮なく深掘りをしてしまう。  ビールごときで既に酔っているからだった。祖父の下戸の血を継いでいる。 「全然会えないんだよ。向こうは仕事ばっかり優先して、僕のことなんかどうでもいいみたい。だから、もう会わないって言ってこっちから別れた」  うっすら涙ぐんでいる龍平である。三弦は妙におろおろして、 「そ……いや、だって……」  と、きょろきょろしているうちに、玄関に飾ってあった音丸の色紙を思い出す。 〝水面より輝く君の瞳かな〟  何だ、この瞳のことじゃないかと涙に光る大きな瞳を見返している。  いよいよ龍平が両手で顔を覆って本格的に泣き出すかと思いきや、派手にクシャミをした。 「駄目じゃん。このエアコン! さっきから全然温度上がってないでしょう⁉」  立ち上がってまたリモコンボタンを押している。思わず三弦はエアコン本体を示して、 「本体のランプが点いてないよ。リモコンの電池が切れてるんじゃない?」 「うそ。ホントだ。寒いはずだよ。電源入ってないじゃん」  それからリモコンの電池を入れ替えたり、本体のフィルターを確かめたり、説明書まで引っ張り出して二人でしばらく騒いだがエアコン自体が故障しているらしいという結論に到る。  修理を依頼しようにも今は正月である。 「まあ、いいや。布団被れば暖かいよ」  と言い出したのは龍平だった。こちらも既に酔っているらしく動作も緩慢になっている。さっさとベッドに入って布団を被り、 「みっちゃんも入んなよ。あったかいよ」  などと手招きをする。  さすがに遠慮して三弦は玄関で脱いだコートを着込んで吟醸酒を更に吞んだ。 酔ったとはいえ、寒かったとはいえ、決してすべきではないことをしたと理解するのは全てが終わった後である。  酔いが回った三弦は半分眠りかけて、 「ほら。そんなところで寝たら風邪をひくから。入んなよ」  肩を揺すられて、龍平が寝ているベッドに入ってしまったのだ。  しかも、いつものように服を脱いだのだ。それを畳んでいる時に、 「え、な、何で脱ぐの?」  龍平が変な声で訊いたのは憶えている。 「だって、汚れた服で布団に入っちゃ駄目でしょう。小さい頃よく言われたよ」  と答えた自分も自分なら、 「あ、それって日本の正しい礼儀なの?」  とあわてて自分の服を脱ぎ始めた龍平も龍平である。  結果、突然やって来た音丸が見たのは、裸でベッドに入っている二人の男だった。  なのに尚、三弦は自分がしたことに気づいていなかった。

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