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第42話 秘め始め
14 秘め始め
「部屋に戻ろうよ。ここじゃ寒い」
と龍平に手を引かれ音丸は部屋に戻った。
打ち上げについては頭から抜け落ちていた。
そもそも音丸の楽屋づきあいは行き届いたものだった。
落語家ならではの長時間に渡る呑み会も最後の最後までつきあっていた。
酒に強い体質がそれを可能にしたのだが、何よりも異性愛者たちに自分が異端であると疑わせないためでもあった。
だが、そうまでしたのに昨年のあの騒ぎである。
初席の打ち上げなどサボったところで構いやしない。そう思い到ったのは、翌朝になってからである。
部屋は底冷えのする寒さだった。エアコンが故障しているのだという。
「だから布団に入ってたんだよ。音丸さんもとりあえずベッドに入ってて。冷えたでしょう」
龍平は風呂場で浴槽に湯を溜めている。
音丸は頑なにベッドを見ないで床に腰を下ろした。転がっていたクッションを暖房代わりに膝に抱く。
「とりあえず中から暖めよう」
と湯呑みが差し出された。芋焼酎のお湯わりである。一気にそれを流し込みながらも、
「もうそこでは寝ない」
と硬い表情でベッドを見ないでいる。龍平は掛布団を引きずって音丸の身体に掛けると、湯で絞った手拭いを持って来て傍らに座った。
「ちょっと味見させて」
と音丸の手から湯呑みを取って芋焼酎を少し舐める。そして、
「間接キッス」
にんまり笑って言われる。
何やら口元がゆるむが、黙って返された湯呑を受け取る。
龍平は湯気のたつ手拭いで音丸の顔や手を拭き始める。涙や泥でべとべとになっているらしい。
「ほら、きれいになった」
と今度はちょんと直接キッスをされる。まだ黙々と芋焼酎を呑む。
「そろそろお風呂いいんじゃないかな?」
立ち上がって風呂を見に行く龍平である。眺める後姿はタンポポの綿毛のようなふわふわした頭の下に細い茎のような身体である。それを肴にとろりとした焼酎を味わう。
記憶にあるのはそこまでである。
やがて吸い込まれるように眠りの底に堕ちていた。
翌朝、音丸は堅い床の上で目覚めた。身体の上には毛布や布団どころか、夏掛けにタオルケットまで山のように掛けられていた。この家にある寝具総出のようだった。
そして温かい大きな抱き枕を抱えていると思ったのは、くるくるパーマの奴だった。
しばらくその抱き枕から漏れる寝息を聞いていた。涙が滲むような幸せな音だった。
そっと布団を抜け出してシャワーを浴びる。髪に天津飯の匂いがついているのに驚く。服は泥だらけだった。洗濯機に放り込み洗っている間、裸で寝具にくるまっているしかなかった。
折しも龍平が目覚めたので、裸で出来ることをする。
〝姫始め〟正月になる度に楽屋の師匠方が嬉しそうに口にする言葉である。
新年初の男女の交わり。
「じゃあ、男同士は何ていうの?」
と問われて考え込む。
〝秘め始め〟と書く場合もあるらしい。そう言うとにっこり微笑まれる。
眩し過ぎて目を合わせられずに顔を逸らしてしまう。なのに両手で顔を眼前に固定されて、
「そういう言葉って日本的でいいよね。また秘め始めをしよう」
「いや、何回やるんだ?」
などと長閑な正月の昼下がりである。
音丸の服はまだ乾かない。
室内は昨夜の酒宴の跡が散らかったままである。
床には音丸の黒いスタジアムジャンパーが死神のように落ちている。
荒い息が静まれば龍平は一人起き直って服を着る。
「音丸さんは服が乾くまで裸だよ。どこにも行けないね。仕事だって行かせやしない」
と、この上もなく嬉しそうに笑っている。ふん。
そして室内を片付けると改めて酒と肴の用意をしている。スタジャンはハンガーに掛けて、壁のフックに吊るされた。
毛布にくるまってベッドに背を預けて座っている。また芋焼酎のお湯割りを呑みながら、
「中学の時ハブられた……ホモだとばれて」
独り言のように呟いた。隣に身を寄せた龍平に、
「ゲイと言おうよ」
と肩に頭を預けられる。
「どっちでも同じだ。男と秘め始めをする奴だ」
頭と頭をくっつけて自嘲的に言ってしまう。
そして思春期にどんな目に遭って来たか訥々と話している。とても落語家の話し方とは思えないが、これは永遠に他人には聞かせない話だからいいのだ。
名前ではなく〝ホモ〟で呼ばれていたこと。そんな呼び方をした連中が未だに地元の楽屋に訪ねて来て、音丸は礼儀正しく対応せざるを得ないこと。などなどなど……。
「そういうの初めて話してくれたね」
龍平は何がなし嬉しそうである。
音丸は壁に掛けられた黒いスタジアムジャンパーを眺めている。
枕元にいた死神は足元に去った。
三弦の部屋で思いがけずカミングアウトしてしまったのは、実は音丸の中にも死にたい気持ちがあったからではないか?
男同士で初体験をしたのは中学生の頃である(女は知らない)。そこそこもてたから恋人が途切れることはなかった。
色恋に没頭していれば心の底にわだかまっていることなど考えずに済む。死にたいと思わなかったとは、つまりそういうことなのだ。
謝罪行脚の只中で地下鉄駅のホームから線路に足を踏み出してしまったのは、それが顕れたに過ぎない。思春期から伸び始めた身長と共に、死にたい気持ちも心の底でぐんぐん育っていたのだろう。
「僕は向こうでカミングアウトしていたから。日本人でゲイの二重苦とか思ってたけど」
龍平は頭を音丸の肩にぐりぐり擦りつけて言う。
「……日本の大学に来たら、帰国子女でゲイだから……また一味違う扱いだったよ」
ついその肩を強く抱き寄せてしまう。まるで砲撃を避けて防空壕に籠っている避難民のようである。
「だから僕、就職の時はもう言わなかったよ。別に仕事するのに誰とセックスするかなんて開示する必要ないしね」
珍しく陰のある笑みを浮かべる龍平である。
そしてにわかに音丸の毛布の中に入って来た。膝に跨り胸に抱きつく様はまるで猿の子である。「ねえねえねえ」と音丸の目を覗き込こみ、
「前に写真をくれたでしょう。僕あの池を見に行きたいな」
「行けたらな」
「じゃなくて。二人で行くんだよ絶対。約束のキス」
そして大袈裟に唇を突き出されて、つい身体ごと押し倒してキスをする。
「別にキスだけでよかったんだけど……」
とぼやきながら、一人だけ着衣の奴はいそいそとまた服を脱ぎ始める。
「えええ?」とあっけにとられる音丸ではある。けれど「約束のキス」と各所に刻印されれば、それもまたやぶさかではないのだった。
信州は雪深い。夜明け前に高速バスから降りた三弦は東京仕様の服で帰って来たことを激しく後悔していた。
雪まじりの風にはたはた靡いているのは、咲也からもらった洒落たサコッシュである。
バスもタクシーも影も形もない未明である。バスで十五分の距離を歩いてアパートに帰るしかなかった。ようやくアパート近くの商店街に辿り着いた時、明かりが漏れている店があった。
牛丼屋だった。二十四時間営業万歳‼
と諸手を挙げんばかりに突入したのは凍えそうだったからで、空腹は後からついて来た。
龍平の部屋で感じた寒さなど屁のようなものだった。何だってベッドに入って音丸を泣かせるようなことをしたのだろう。
後悔ばかりだった。
とりあえず謝罪のメッセージを送ろう。
かじかんだ指で食券を買うまではそう考えていた。
だが席に着いた途端に思考は飛んだ。
同じカウンターの右奥の席に茶髪の女の子がいた。丼を抱え込んで食べているのは、大塚ジュリだった。
既にこちらに気がついており、ひらひらと箸を持った手を振る。それは左手だった。
「左利き?」
思わず口にしてしまう。
聞こえたのかジュリは頷いてまた左手で牛丼を食べ続ける。狐につままれた気分でカウンターに届いた牛丼を手に取る。
自分はあの女性と何回セックスをしたのだろう。コンドームを着けてもらったことさえある。なのにそれを持つ手が右手だったか左手だったかも覚えていない。
黙々と牛丼を掻き込む。そしてご飯粒にむせて気がついた。
三弦はぼろぽろ涙をこぼしているのだった。まるで音丸のように、しゃくりを上げながら甘辛いタレの効いたご飯を口に運んでいた。
「どうしたの? 失恋?」
気がつくとジュリが隣の席に座っていた。
三弦は首を横に振って腕で涙を拭った。そして改めて頷いた。
そうだ。失ったのだ。恋かどうかは知らないが。
三弦は音丸の存在などすっかり忘れたつもりでいた。山で再会してみて初めて幼い頃に愛があったと思い出したのだ。
けれど、たっぱちゃんこと音丸には中園龍平という存在があったのだ。
離婚した母が義父と再婚したように。そして父母には、るりという実の娘が出来た。
あの二人の姿は自分の孤独さを浮き彫りにした。
咲也にも振り向いてもらえなかったし。
今や三弦はたった一人である。
憐れむ自分を自分が責める。
そんなの当然だ。一人の人間を性欲解消の道具に使って恥じない奴は一生一人で苦しむのだ。
傍らにいる女性こそ三弦がそんな人非人である証なのだ。
「ひ、左利き、なんて……気がつかなかった」
しゃくり上げているからなかなか声が出て来ない。
「うん。お箸だけは矯正できなかった。後はちゃんと右手に直したんだ」
とジュリは三弦の肩に左手を掛けて「つきあおうか?」とまた腕に胸を押し付けて来る。
三弦は首を横に振った。
「な、何で、ここに、今頃、いるの」
と、ようやく尋ねる。
「家、この近所だもん。これからバイトなんだ」
「バ、バイト? こんな早く?」
「うん。パン屋で仕込み手伝ってるんだ」
改めて大塚ジュリの顔をまともに見てしまう。
別にジュリは三弦の住処をわざわざ探したのではなかった。ただ近所に住んでいただけだったのだ。
そしてバイトと聞いて即座にいかがわしい仕事だと決めつけた自分にまた恥じ入る。
「ごめん」とつい言ってしまい「何が?」と返される。
「……泣いたりして」
「泣きたい夜もあるよね。あ、もう朝か」
とジュリは「じゃあね」とまた手を振って厚手のダウンジャケットを着ると店を出て行った。
窓の外、雪景色の向こうにうっすらと夜明けの色が兆していた。
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