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第43話 秘め始め

〈悪かった〉  というLINEメッセージが届いたのは数日後である。音丸からだった。  待てど暮らせど続きはなかった。何に対する謝罪かはわかるが、もう少し説明があってもいいのではないか。  そう思った三弦こそが音丸や龍平に何を言ったらいいのかわからず、このメッセージも既読無視した。  母親からは、にわかにアパートに帰ってしまった息子に対して叱責の言葉が飛んで来た。実家に残して来た荷物を送ってくれるように頼んだところが、 〈お父さんが気にするから、きちんと挨拶してから帰りなさい〉  と叱られたのだ。それも当然である。  交通費の無駄使いも甚だしいが、再び横浜の実家に帰り義父に頭を下げる。友人宅で酒を吞んでいるうちに、つい長野に帰ってしまったと意味不明な説明だったが、 「三弦くんはあまり酒に強くない体質らしいね。呑み過ぎには気をつけてくれよ。お母さんが心配するからな」 と、何事も穏便に済ませてくれる義父である。  そうして、正月休みが終わるとまた自動車教習所に通い、運転免許証を手に入れてから長野の老朽アパートに帰ったのだった。  二年生の最終学期が始まる頃、中園龍平から長いメールが届いた。 〈この度は私の短慮による行動でご不快な思いをさせてしまいました。深くお詫び申し上げます。〉  まるで不祥事を起こした会社の謝罪文のような始まりだった。 〈正直に申し上げれば、私は三弦さんと友人になりたいと思っておりました。決して有名な落語家の御令孫だからという理由ではありません。とても魅力的なお人柄に魅かれたのです。〉  三弦はこの〝とても魅力的なお人柄〟という文章を何度も繰り返し読んだ。  誰がだ? まるで皇族に対する賞賛のようだ。  龍平は自分には恋人はいるが友人がいない。だから三弦と親しくなりたかったのだと説明していたが、その恋人が誰なのかは記してなかった。 〈けれど私が三弦さんと親しくなることによって、不快さを覚えたり悲しんだりする人がいるのなら、誠に残念ではありますが今後のおつきあいは諦めるしかありません〉  メールの最後まで読んでも〝柏家音丸〟の名前は出て来なかった。万一誰かに読まれても、音丸に妙な疑いが起きないように配慮してあるのだった。  そして、ただ謝罪したかっただけなので返信は不要と結んであった。  三弦は返信をしたかった。短慮だったのは三弦の方である。けれど、もはや友だちづきあいをしないという龍平に対する返事は、返信をしないことでしかなかった。では三弦も黙って距離をおくしかない。  音丸とももう顔など合わせられない。あんな姿を見てしまってどう接すればよいのかわからないのだ。  久しぶりに月の湯に行くと番台の店主は三弦に向かって、 「春になったら、ここで落語会を開くに!」  と宣言するのだった。 「そうですか。頑張ってください」  湯銭を払って番台を離れようとする三弦の襟首を掴まんばかりにして話す店主である。  昨年の仁平一門会で加瀬教授と共に楽屋を訪ねて柏家仁平に出演交渉をしたそうである。  教授がいたのは大学の落研と月の湯で共同主催を決めたからである。 「仁平師匠はもう先々まで予定が決まっとったで、三番弟子の音丸さんを紹介してくれただよ」 「それはよかったですね。じゃあ僕は風呂に……」 「蓮見くんも手伝ってくれるら? 初めてプロを呼ぶで失礼があっちゃいかん」  強引に言われて「はあ」などと曖昧な声を出す。逃げるように服を脱いで風呂に飛び込み、次からはまた遠くの銭湯に行こうと決めるのだった。  しかし冬場に遠くの銭湯はどうにもつらい。北風に負けて月の湯に入ってしまえば、あれこれ落語会の相談をされる。  そしてどういうわけか、三弦が月の湯を出る時は大塚ジュリと顔を合わせることが多い。つい商店街の牛丼屋や立ち食いそば屋で食事を共にする。いつからかジュリが「つきあわない?」と誘うのはセックスではなく食事になっているのだった。もちろんワリカンである。  ちなみに大塚ジュリは正式には大塚寿里と書くらしい。  立ち食いそば屋で月見そばをすすりながら割り箸で、宙に文字を書いて見せる寿里である。 「寿の里だよ。だっさ!」 「寿限り無しよりいいじゃん」 「何それ?」  と言われて落語〝寿限無〟の長い名前を披露する。三弦としては笑って欲しかったのだが、 「蓮見くんて、めっちゃ賢いよね。前にも思ったけど、難しい言葉めっちゃ知ってるもんね」  と、きらきら光る目で三弦を見つめて真剣に感心する。そして月見の黄身を箸でプチンと刺して汁と共に飲む寿里だった。  寄席の正月興行は一月の二十日まで続く。 それが終われば桜の開花より早く高座では〝長屋の花見〟〝花見の仇討〟〝百年目〟など桜の噺がかけられる。落語は季節を先取りしているのだ。  音丸が師匠仁平から呼び出されたのは高座で今年初の〝長屋の花見〟をかけた日だった。  師匠宅を訪ねると玄関先に出て来たこっぱは、師匠は書斎に居ると告げてから、 「新しい前座が入るみたいっすよ」  と嬉しそうに囁くのだった。 「やっと俺も末っ子じゃなくなる。こっぱあにさん、とか言われるんすよ」 「なら、もう少し言葉遣いに気をつけろよ」  注意する音丸に「そっすね」と頷いて台所にお茶の支度に行くのだった。わかっているのか?  書斎は洋間だった。机や応接セットがある。机の前で書き物をしていた仁平師匠は椅子に座ったまま、音丸に応接セットのソファを勧めた。そして、こっぱがお茶を運んで来ると、 「あれだ。こっぱも座って聞きなさい」  三番弟子と四番弟子がソファに並んで机の前の師匠を見上げている。  師匠は菓子鉢の中から富山名物、月世界を選んで取るとさくさく音をたてて食べている。余程この菓子が好きなのか顔がほころんでいる。音丸は黙ってお茶を啜った。 「新しく入門志願者がいるんだが……」 「はい」 「女性なんだが音丸はどう思う?」 「はい?」  つい語尾を上げてしまう。 「昨年は女前座のせいで音丸は散々な目に遭ったな。それなのに一門に女性の弟子を入れるなど酷かと思って……あれだ。もしおまえの気が進まないなら断るつもりだが」  そもそも師匠が新たな弟子をとるかどうか弟子に相談するなどあり得ない。音丸は思わず腰を浮かせていた。 「待ってください、師匠。私などに構わずにお決めください」  と言って座り直した。居住まいを正して、 「師匠に弟子入り志願をしているなら、男でも女でも昔の私どもと立場は同じです」  傍らでこっぱも強く頷いている。 「うん。そう言ってくれると安心するよ」  手を打ち鳴らすように菓子の粉を払って師匠はこっぱを見やった。 「弟子にとるなら、もちろん住み込みになる。こっぱは兄弟子だぞ。面倒をみてやってくれるな」 「はいっ!」と鼻息荒く頷く末っ子である。 「それと、あれだ。私の鞄持ちはしばらくその女性の弟子にやってもらうことにする」 「えっ……で、でも鞄持ちは俺、私が……」  と、こっぱはにわかに不安げな顔になる。 「お披露目だよ。仁平一門に女の弟子が入ったとな」  仁平師匠は珍しく悪漢めいた笑みを浮かべる。 「去年音丸を叩いた連中に見せつけてやる。うちは女性の弟子が住み込みで働いても何の問題もない。安心できる場所だと知らしめるのさ」  と音丸に目配せをするのだった。  音丸は何がなし目頭が熱くなるのを感じた。  あれ以来やたらに涙もろくなったようでかなわない。それもこれもあの天然パーマのせいである。  

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