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第49話 エピローグ

エピローグ  空はひたすら青い。  新緑の渓谷を貫いて一本の道が走る。まるで中空に浮いているかのようだ。もちろん橋脚はあるのだが。  この道から身を投げたとしても、谷底に落ちるか宙を飛ぶかわからないうちに、この世からおさらばできるだろう。  この世とあの世の境目は白いガードレールだけである。  足元を遮るガードレールに両脚を遮られている。つい跨ぎたくなる。 にわかに背後から両腕を回されて身体を拘束される。 「もっと下がって。音丸さん」  腕ごと上半身を抱え込まれて、じりじりと後方に誘われる。 「見てて怖いよ。谷底に落ちそうだよ」  言われてみれば音丸は、ガードレールから身を乗り出さんばかりにして立っていた。昨年の夏、師匠の孫が同じようにしてここに立っていたのだ。 「ここでみっちゃんを拾って山のホテルに連れて行ったんだ」  と説明するが龍平は「ふうん」と腕を放すとレンタカーに戻って行った。  音丸は特に理由を言わずにここで車を停めさせたのだ。だから今になって説明したのだが、何とも気まずい気分で助手席に乗り込む羽目になってしまった。   あれ以来二人の間で〝みっちゃん〟だの〝三弦さん〟だのは禁句になっている。 当初は龍平が気を使って口にしなかったのが、時間がたつにつれ音丸が言うのも嫌がるようになっていた。  梅雨時にこの晴れ間は珍しい。夏の繁忙期になる前に何とか二人で休みをとって一泊旅行に出て来たのだ。  龍平の喜ぶまいことか。あっという間に旅行計画を立てて、指折り数えてこの日を待っていた。  新宿駅からJRの特急電車に乗り長野駅でレンタカーを借りて、あの池を見に行く。  平日だったから通勤ラッシュの時間帯をさけて出発した。それでも落語家にとってはまだ早朝だった。朝方まで打ち上げで呑んでいた音丸は移動中の大半を眠っていた。乗り換えのたびに「ねえねえねえ」と甘い声で起こされるのは旅仕事とは違う嬉しさだった。  宿泊はあの山のホテルは避けて、群馬県側に下った温泉地である。何しろお忍び旅行である。長野駅でレンタカーを借りて早々にそこを離れたのも、三弦や銭湯落語会で知り合った人々と顔を合わせたくないからだった。  そうして師匠の孫を拾った場所を通り過ぎ、件の池に辿り着く頃には午後の日差しも傾いていた。思いの外、山の日暮れは早かった。朝日に輝いていた池の写真と同じ場所とは思えない陰鬱な景色になっている。  二人で車を降りたものの道路から石段を下って池のある草むらまで降りて行く気にもなれない。薄暗い草むらは足を踏み入れたら底なし沼のようにずぶずぶ沈んで行きそうに見える。 ここも車を降りたのは失敗だったか……うっすら後悔する音丸の手を龍平が掴んで引いた。 この薄暗がりである。誰に見られても構うものかという気分で、二人で手を繋いで道路から草むらに下りる石段に向かう。  闇に二人が降りて行く。  三弦が昨年の夏ついに辿り着かなかった大学の合宿所は、山荘ホテルを通り過ぎた群馬県側にある。一年生の時に来たことがあるから、駐車場に公衆便所があることも知っていた。  長野駅でレンタカーを借りて白根山の高山植物を撮りに来たのだ。一人旅である。 日が暮れるまで植物を探しては撮影して、暗くなってから館内に県境がある山荘ホテルにチェックインした。今回はきちんと予約している。  部屋は〝信濃金梅の間〟シナノキンバイだったのが何とも嬉しかった。  福々しい容貌の若旦那は山野草にも詳しく、白根山の撮影ポイントなども教えてくれた。  翌朝チェックアウトするなりまた白根山に取って返し写真を撮りまくった。シラネアオイ、シロヤシオ、イワタバコなど嬉しいほどに収穫があった。  そして帰路、合宿所の公衆便所に寄ったのだ。  やはり自分は一人が好きらしいと改めて思う。周囲に気を使わず心の赴くままにあちこち見て歩けるのは楽しくてたまらない。トイレ休憩も何の心配もなく出来るし。  トイレを使って便器を離れたところで、やって来た人と鉢合わせした。互いに言葉を失っていた。  向こうから握手の手を差し出されて、 「まだ手を洗ってない」  と気まずく手を洗ってから、相手がまだ手を差し出しているのを見て握手した。  そうして先に外に出た。  山の端に夕陽が落ちようとしている。薄暗くなった駐車場には三弦が借りた白い車と、少し離れた場所に黒い車が停まっている。こちらもレンタカーらしい。  車内に人影が見える……と思ったところで背後から声をかけられた。 「彼なら爆睡してるよ。朝まで呑んでたのを連れて来たから」  眩しいほどのきらきらした瞳で軽くウィンクをするのだった。やはり日系アメリカ人のような仕草である。 「みっちゃんも来てたんだ。僕らは下から走って来て、今あの池を見て来たんだ」 「池って……もう暗かったでしょう? あそこは朝早くないと景色が全然違うんだよ」 「そうだね。ちょっと地獄の沼みたいだったよ」  何やら目元を赤らめて、くすくす笑うのが妙に色っぽい。ふいにかすかな香りが漂った。爽やかなヘアトニックのようなアジアンテイストのお香のような何とも言い難い香りである。  三弦は少しもじもじしながらも、 「お正月には、ごめんなさい。……何も考えないでベッドに入ったりして」 「僕が誘ったんだよ。みっちゃんはちっとも悪くない」 「でも、音丸さんがそうだって聞いてたのに……」 「ふうん?」  と怪訝そうに目を覗き込まれて、一歩後ずさりしてしまう。言い方がまずかったろうか。 「彼にカミングアウトされてたわけ?」 「うん……たまたま……だと思うけど」  ついその経緯をへどもどと話して聞かせる。 「すごいね。みっちゃんは。音丸さんがカミングアウトしたのか」  とまっすぐ見つめられる。いよいよ挙動不審になる三弦である。 「僕には彼を変えることは出来なかった。  だから別れようと思ったのに……みっちゃんはまんまとやってくれたわけだ。  彼は変わったよ。前よりずっと……」  と言い淀む龍平に向かって、三弦はかぶりを振った。 「違うよ。人に人は変えられない」  つい言い返してから、あわてて言葉を継いだ。 「僕は音丸さんと再会して……龍平さんとも会えて、変わることが出来た。前よりずっと楽になった。でもそれって、愛があったからなんだ」  龍平は黙って首をかしげている。仕草がどことなく音丸に似ている。 「あ、いや恋愛とかじゃなく、親の愛みたいな……僕はずっと愛されていたって思い出して……そしたら自分から動けた。その勇気が出たんだ」  と自分からまた握手をしてしまう。  龍平は三弦を見つめたまま彫像になったかのように手を握られている。 「音丸さんが変わったなら、龍平さんがいたからだと思う。龍平さんが変えたんじゃなく、音丸さんが自分で変わったんだよ。似てるけど違うんだ」  龍平の大きな瞳がみるみる涙で光り始める。  吸い込まれるようにそれを見つめて三弦は続ける。   「愛があると知れば、人は変われるんだよ」  龍平は空いた手で目を擦って三弦の手を強く握り返して来た。ようやく固まる魔法が解けたかのようである。 「やっぱりみっちゃんはすごいな。メールしたのは本当だよ。僕はみっちゃんと友だちになりたかった」  そして、くすくすと笑う。 「でも今はまだ無理だと思う。こんなの見られたらまた彼に泣かれる」  つられて三弦も笑いながら、 「泣いてるのは龍平さんだよ」  と、もう一方の手も握ってしまう。  子供の遊び、通りゃんせでもしているような格好で二人笑い合うのだった。  黒い車の窓ガラス越しに助手席の黒い服の男が熟睡しているのが見えた。運転席に龍平が乗り込んでエンジンをかけてもびくともしない。今ここで白根山が噴火したところで音丸は起きないだろう。  ここまで眠りの深い男が真夜中に幼い三弦を起こしてトイレに連れて行ってくれたのだ。それだけでもう充分に愛だろう。  窓越しに小さな声で言ってみる。 「さよなら、たっぱちゃん」  黒い車は軽くクラクションを鳴らして横を通り過ぎると、三弦が今来た道に向かって走り出した。今夜は草津温泉に泊まると言っていた。  蓮見三弦は白いレンタカーに乗り込むとシートベルトを引いた。  母の離婚に伴って松田三弦から竹田三弦になった。  初めて祖父が運転する車に乗ったのは小学三年生の頃だった。シートベルトの締め方ぐらい知っていた。  けれど乗り慣れた実父の車と祖父の車とではバックルの形が少し異なっていた。それで戸惑っていたのを、まだ音丸ではない、たっぱちゃんが手を出して留めてくれたのだ。  以来、たっぱちゃんは車に乗る時は三弦のシートベルトを着けてくれた。子供はシートベルトが締められないと思い込んだらしい。  かちゃりと音をたててシートベルトを留める。黒い車が走り去った方向とは逆向きにハンドルを回してアクセルを踏み込む。  昨年の夏一人で佇んでいた場所を通り過ぎてしまった。そう気がついたのは長野市街に入ってからである。実はあの場所がどこだったかも、うろ覚えだった。  一人ほほ笑んで軽くブレーキを踏むと、ゆっくりと車をレンタカーショップへ乗り入れる。

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