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第48話 月の湯落語会
咲也いや、たっぱもやはり衣装の入ったザックを背負って、大柄な女性のファンサイト管理人と談笑している。
「音丸さん。素晴らしい〝文七元結〟を聞かせていただきましたわ」
とこちらを振り向く管理人である。
「夜は高崎で三人会ですわね。私はこちらでお風呂をいただいてから参りますわ。高崎でも文七を?」
「いいえ。もう少し軽い噺を考えてます」
二人が話しているので三弦は自然に女性前座を眺めている。丸みのある頬は輝くばかりである。つい斜め掛けしたサコッシュを撫でるのだった。元咲也、現たっぱに貰ったものである。
「よかったね。また落語に戻れて……」
と話しかけると、たっぱはにっこり微笑んだ。口元にくっきり浮かぶえくぼに引き込まれそうである。何ならあそこにチューしたいと思ってしまう。
「三弦さんのお陰です。また落語をやりたいと思った時に、三弦さんがおっしゃったことを思い出したんです。柏家ならばって……」
「じゃあ今はあの家に住んでるの?」
「ええ」と頷くたっぱに声を落として尋ねる。
「大丈夫なの? ……男性恐怖症とか。四番弟子のこっぱさんも一緒に暮らしてるのに?」
「ええ。症状は大分よくなりましたので。おかみさんが気を使って、離れを男子禁制にしてくださって。私とおかみさんだけ離れで暮らしています。昔、三弦さんや音丸あにさんが暮らしていた場所でしょう?」
「まあね。あそこは、代々柏家たっぱが住むべき場所だもん」
と何やら得意気に言ってしまう。
「でも、また一から前座修行なんて大変だよね。芸協では二つ目間近だったのに」
「とんでもないことです。私のせいで音丸あにさんはもっと大変な目に……」
と言いかけて、たっぱは口を噤んだ。
三弦は軽く笑って尋ねた。
「台所に高級海老煎餅の業務用段ボール箱が……まだ残ってる?」
「ええ。好きなだけ食べていいけど、音丸あにさんには見せるなって、おかみさんが」
「僕の所にも海老煎餅が送られて来たよ。音丸さんはあれを持って謝罪に回らされたんだって? 詳しくは知らないけど……」
「……そうですね。発端は私や桐也で……あにさんには何の罪もないのに……」
「男はつまらない体面ばかり気にして、いっつも下の者が苦労させられるって祖母激おこだったよ」
「おかみさんもご存知だったんですね。何もおっしゃらないけど……。あにさんはそんな苦労をなさったのに、あんな素晴らしい文七を上げられて……」
三弦もしみじみと頷いた。
「やっぱり柏家音丸は未来の名人だと思うよ」
実のところ三弦が音丸に再会してから聞いた落語は三席に過ぎないのだ。うち二席は長野で聞いたループする〝金明竹〟と、勉強会で聞いたネタ下ろしの〝文七元結〟である。未来の名人と褒め称えるにはどうかと思う出来だった。
だが今日の〝文七元結〟は正に未来に語り継がれるだろう名演だった。つい熱く語ってしまうと、たっぱも力強く頷くのだった。そして、
「私も今度こそ脇目もふらずに落語に精進致します。何卒よろしくお願い申し上げます」
と何かの披露口上であるかのように深々と頭を下げるのだった。
向こうでちらちらこちらを見ているのは黒縁メガネの部長である。
「部長がさ、また咲也……じゃなく、たっぱさんを大学祭に呼びたいって言ってたよ」
別に言ってはいないが嘘でもない。
「僕もまた、たっぱさんの高座を聞きたいな。寄席に出る時にはきっと行くから教えてね」
「ええ。その時にはぜひご連絡ください」
というわけで新しいスマホの連絡先も交換する。ただこれは前座にとっては新客確保に過ぎないのだ。この先どうなるかは三弦次第である。
落語家たちは、黒塗りのベンツで駅に送られて行った。件の製菓会社の運転手付きの車である。加瀬教授や部長も乗り込んで送って行った。
三弦は月の湯前で、元たっぱと現たっぱと別れたのだった。自分も風呂に入って帰ろうかと思っているところに、
「ああ、いいお湯でしたわ。みっちゃんさんは高崎に行かれませんの?」
と声をかけられる。音丸のファンサイト管理人である。
いや、〝みっちゃんさん〟て……。確かにこの女性には正式に名乗っていなかったけれど。
それにしても女性にしては異様に早湯である。まだ客の誰も上がって来ていないのに。
洗い髪を拭いている手拭いは抹茶色である。もちろん音丸の二つ目昇進時のものだった。
そこに女性が呼んだのだろうタクシーがやって来る。即座に乗り込んで駅に向かうようだった。何というバイタリティーだろう。
音丸の周囲には奇妙に魅力的な人物ばかりである。何やら笑いながら走り去るタクシーを見送る三弦だった。
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