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第47話 月の湯落語会

 そして後半。三弦は音丸のマクラで〝文七元結〟に入るのを察して、カメラを降ろした。  本当はこの大一番こそ撮らねばならないのだが。聞くのに集中したかったし、シャッター音で噺の邪魔をしたくなかった。ビデオカメラは撮影しているから大丈夫だ。  音丸の〝文七元結〟は昨年の勉強会で聞いたものとはかなり違っていた。  博打狂いの左官の長兵衛は娘のお久を吉原に売った金五十両を懐に吾妻橋までやって来る。そこで大川に身投げしようとしている若者文七を見つけて助けるというのが従来の形だが、音丸の噺では、 「情けねえ。もう生きて居たかねえや。いっそ死んじまおうかな……」  と欄干から夜の川面を覗き込むのは長兵衛なのである。  その横で同じように川面を見ているのが鼈甲問屋に勤める文七である。  ここでコメディのような二人同時の仕草が入る。客席は大爆笑である。音丸は噺に緩急をつけて客をぐいぐい引き込んで行く。  文七も自殺しようとしていると気づいた長兵衛は助けて訳を聞く。ここから従来の形に戻る。  掛け取り金を盗まれて死んで詫びようとしている文七に長兵衛は五十両を投げ付けて逃げてしまう。  だが実は文七は勘違いをしていた。五十両は忘れて来ただけで盗まれてはいなかったのだ。  翌朝、文七は鼈甲問屋の主人と共に五十両を返すために長兵衛の長屋を訪ねて来る。そして長兵衛の漢気に惚れた主人は親戚づきあいをしたいと申し出る。 「見ず知らずの若者を助けるために、命より大切なお金を投げ出せる。そんな立派な親方とぜひ親戚づきあいしたいのです」 「とんでもねえこった。旦那。あっしが助けたのはそいつじゃねえ。あっしでさあ」 「これはまた異なことを……親方、どういうことですかな?」 「博打の借金を返すのに一人娘を売るなんざ鬼畜生のやるこった。情けねえ。もう大川に身を投げて死んじまおうと思ってた」  半ば自嘲するように言う音丸の長兵衛親方である。  客席はしんと静まり返っている。既に湯が沸かされている浴室で天井から湯気の雫が床に落ちるかすかな音まで聞こえて来る。 「なのに、そいつが先に飛び込もうとしやがる。あっしゃ自分が死ぬのも忘れて、そいつを助けちまった。お陰でこうして生き延びたわけでさあ」 「親方は文七を助けてくだすった。けれど逆に文七は親方を助けたと?」  三弦はあっと息を呑んだ。目に湛えていた涙が堪え切れずに頬を滑り落ちた。 「ええ。その男が、あっしの命の親なんでさあ。あっしゃ何もしちゃいねえ。親戚づきあいさせて欲しいのはこっちでさあ」  会場からも啜り泣きの声が聞こえる。  そして主人の合図で長屋の外に籠が止まる。中から出て来たのは、吉原の店に売られたはずの娘お久だった。鼈甲問屋の主人が身請けして美しい衣装を着せて帰す粋な計らいだった。 「ただいま。おとっつぁん。おっかさんは?」  と尋ねるお久に、着る物もなく裸で衝立の陰に隠れていた母親が会いたいけれど恥ずかしく、立ったり座ったりする。ここからまた会場が爆笑に包まれる。  やがて文七とお久が結ばれて元結屋を開いて繁盛するという結末も従来通りだった。  緊張と緩和を自在に操る音丸の話芸であった。  高座で丁寧に頭を下げる音丸に向かって惜しみない拍手が送られた。三弦はまだ腕で涙を拭きながら拍手をしていた。 「泣いても笑っても涙がこぼれる落語なんて音丸さんぐらいですわ」  ファンサイト管理人の話す言葉が脱衣所の格天井によく響く。  お開きの後は銭湯の営業開始である。客席や楽屋になった脱衣所は早々に元に戻さねばならない。男湯の客席を落研部員たちがばたばたと片付けている。それが終われば女湯の楽屋撤収である。  三弦は女湯の楽屋を訪ねた。音丸が座って着物の入った風呂敷包みをザックに詰め込んでいる。近づいて床に膝をつくと、 「感動して涙が出ちゃったよ。前よりめっちゃ進化していたね」  と話しかける。  にじり寄って音丸の顔を見つめるが、うつむいたまま荷造りをやめない。そしてザックのファスナーを音をたてて閉めると荷物に手を置いた。もう背負うばかりになっているのに、まだ立ち上がろうとしない。 「死にたがる長兵衛なんて、今風だよね」  そう言うと音丸はようやく顔を上げた。切れ長の瞳が射るように三弦を見つめている。 「あの工夫は、三弦さんのお陰です」  と、ようやく口許に笑みを浮かべた。思わず三弦もほほ笑んだ。 「前に訊いてくれましたね。死にたいと思ったことはないかと。あれがヒントになりました」 「あ、そうなんだ?」 「私もずっと死にたかった」 「やっぱり」とは言えなかったが、噺を聞いた時に直感した通りだった。 「でもずっと気がつかなかった。いつも好きな人がいて恋人が途切れることがなかったから」 「音丸さんて、もてたんだ」 「ただのヤリチン……いや、失礼」  と自分の手で口を押えると、腰を上げた。  三弦もあわてて立ち上がりながら、にわかにきょろきょろする。けれどマンジュリと蔑称を与えられた女性の姿はもう見えない。 「とにかく目を逸らしていた。本当はずっと死にたかった。三弦さんが、いや三弦さんと会えてよかったです。正月にあいつと……いや、それはいいんです。つまり、あの時初めて……」  高座での滑らかな口調とは比べ物にならない話しぶりである。三弦は気がついたらぎゅっと音丸に抱き着いていた。驚いたことに音丸は逃げなかった。  いつも三弦が身体に触れるたびに微妙に身を引く気配があったのに、今はただ三弦の抱擁を受け入れている。黒い服からは着物に焚きしめた香と音丸の体臭とが混じり合ったような、不思議なアジアンテイストな香りがする。 「ごめんね。それと、ありがとう」  そう言うと、頭頂部に大きな手がのせられて髪をわしゃわしゃされた。見上げなくとも音丸の目が糸のように細くなっているのがわかる。 「こちらこそ。三弦さんのお陰で、考える機会をいただきました。ありがとうございます」 「僕はもうおねしょなんかしない」  と顔を上げて宣言する。 「そりゃそうでしょう」  苦笑する音丸である。 「ずっとたっぱちゃんが面倒を見てくれたお蔭だよ。なのに僕は一度もお礼を言わなかった」 「言いましたよ。アパートに華さんと一緒に来てくれたじゃないですか」 「あれは、たっぱちゃんが二つ目に昇進したお祝いだもん。僕のことではまだお礼を言ってなかった。おねしょの世話をしてくれたり、小学校に迎えに来てくれたり……ママが離婚してからずっと不安だったけど、たっぱちゃんは何だかもっと怖くて……」 「それは褒めてるんですか?」 「褒めてるんだよ! 怖いたっぱちゃんがいたから全部が平気になれた。それに去年あそこで見つけてくれたり……いっぱいありがとう」  と、また音丸の胸に顔を埋めた。服に涙をこすりつけている。 「すまんけえど。そろそろお風呂を始めますで。男の人は女湯を出てください」  店主が大声で触れ回っている。 「行きましょう」  音丸に促され、三弦はまた腕で涙を拭きながら女湯を出る。靴を履いて外に出たところで、 「ちなみに」と音丸に肩を叩かれる。 「たっぱはあれです」  と示すのは、元の柾目家咲也だった。 「これからは、あれをたっぱちゃんと呼んでやってください」

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