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第46話 月の湯落語会

 一同は駅のエスカレーターを一階まで降りて行く。三弦は夢遊病者のようにふらふらと歩いて最後尾についているのだった。  エスカレーターで下の段に立つ音丸は三弦と殆ど身長差がなくなっている。その後頭部を眺めて、ああ、たっぱちゃんはついにこんなに小さくなったと奇妙な感慨を抱く。 「でもまだ、なっぱちゃんの名前が残ってるのに……咲也さんには、なっぱのが似合うよ」  少しばかり不満が滲んだ声で呟く三弦を振り返って、 「私の前座名を覚えている者も多いですから」  音丸は、にやりと笑って見せるのだった。久しぶりに見た鋭い目つきである。 「柏家たっぱの名を聞けば、いやがらせをする奴も少ないでしょう。私たちが後ろについていると宣伝しているわけですよ」 「たちって……」 「こっぱにも彼女に手出しする奴があれば、きっちり痛めつけてやれと言ってあります。警察のお世話にならない程度に」  ただのチンピラ兄弟ではないか。  三弦は自分の鼻先で寸止めされた音丸の拳を思い出していた。後で冷静になって考えれば、普通なら鼻の骨が陥没していてもおかしくない。あの状況でよくぞ拳を止めてくれたと背筋が凍ったものである。そんな技の持ち主が、元柏家たっぱなのだ。 「……心強いかもね。女流を認めない落語家もまだ多いから。廃業したのに復帰なんて、もっと厳しい修行になりそう」 「ええ。せめて魔除けになる名前をと師匠はおっしゃいました」 「そうだね。そういう意味では強い名前だよね」 「私のお陰でたっぱという前座名に剣呑なイメージがついた。そう師匠に褒められました」  満足げに頷く音丸に、三弦は思わず言ってしまう。 「それ……あんまり褒めてないと思うけど」  ぽかんとする音丸である。 「あいつみたいなことを言わないでください」  と目を逸らした。  ちょうどエスカレーターが終わったところだったが、後ろを向いていた音丸は足元をとられそうになる。あわてて三弦が腕を掴んで事なきを得る。そしてそのまま腕を組んでしまう。 〝あいつ〟とは中園龍平のことだろう。普通に口に出来る程度には仲直りしたらしいと安堵する。 「あの人もそう言ったんだ?」 「私は言葉を直で受け止め過ぎるそうです」  立ち止まって音丸の腕を強く掴んだ。 「ごめんね」  と二人並んで前を向いたまま言う。表情は見えない。 「いえ」  と微かに聞こえた気がした。  腕を組んで歩く二人を部長が車の前で呼んでいる。 「蓮見くん。いい年してベビーシッターに甘えてるんじゃないよ。ほら、運転して」  三弦は運転席に、音丸は助手席に乗り込んだ。部長は咲也いや、たっぱの隣で嬉しそうにしている。  月の湯の会場は満員御礼だった。座布団席もベンチ席も老若男女様々な客が身を寄せるようにして座っている。  地元客だけかと思いきや、都内で音丸の客席によく見かける大柄な女性客がいる。音丸ファンサイトの管理人と教えてくれたのは中園龍平だった。こんな小さな落語会までよくぞ見つけてやって来るものである。  開口一番が始まると、加瀬教授は番台に上がってビデオカメラを撮り始めた。三弦も一眼レフカメラでの撮影を依頼されていたから、高座の邪魔にならないように後方で静かにシャッターを切った。 「昨年は、柾目家咲也という名前で長野にお邪魔しましたが、今年から柏家仁平門下に移りまして、柏家たっぱという名前に変わりました」  と、咲也の顔を覚えている地元客が戸惑わないように挨拶をする。 「よっ! 柏家たっぱ‼」  見事な間で掛け声をかけた恰幅のいい紳士がいる。昨年自宅のお座敷で落語会を開いたあの製菓会社社長だった。おそらく加瀬教授からのチケット購入だろう。  一人でもこういう慣れた客がいれば会場の雰囲気が変わる。初めての落語で緊張している客達が安心して先達に倣って笑う。そして落語家がやりやすいとても良い環境になるのだ。 「どうぞ新しい名前、柏家たっぱで一席おつきあい願います」  と深々と頭を下げてから入ったのは〝寿限無〟だった。  満員の客席には大塚寿里もいた。座布団席の中程で膝を抱えて見ていたが、たっぱが〝寿限無〟の言い立てに入った途端に振り向いた。後方で写真撮影をしている三弦を見たのだ。  茶髪の女の子が破顔一笑している。思わずシャッターを切る。  続けて、頬にえくぼがある柏家たっぱも撮影する。  三弦と寿里は相変わらず食事をつきあうだけの清い関係である。友人関係と言うべきか。今日のチケットは三弦が奢った。それぐらいの恩義はあると思っている。  寿里は自分が〝マンジュリ〟と呼ばれていることを知っていた。 「男子って恋愛音痴だから。セックスすればヤリマンて発想。ビンボ臭い」  牛丼に紅ショウガを入れながら言う寿里と、山野草研究会の男どもとの見解の乖離に驚く。  三弦に〝穴兄弟〟などと言った二人は、確かに寿里とは寝たらしい。  けれど寿里にとっては心ときめく恋愛だったのだ。だから身体も結ばれて、それぞれに理由があって別れたという見解である。  男どもはセックスを堪能したから捨てたに過ぎないのに。  三弦と交際を始めたことも嬉しくて女子部員に自慢したところが、男子部員の間では〝穴兄弟〟になっていた。残酷な事実である。  童貞を卒業したばかりの三弦には、あの二人と自分とで既に三人も経験がある寿里は(たぶんもっと多い気もする)やはりヤリマンと思えてしまうのだ。  一方で、寿里の様々なセックステクニックは三弦の望みを先取りしたからこそ披露したとも思える。ベッドで寿里は、あれこれデートの提案もしていたように思う。それを聞き流して肉体の欲望だけを追求していたのは三弦の方なのだ。  あまり認めたくはないが、大学祭の時に咲也を連れて行ったパンケーキ屋も、確かにSNSで調べたのだが「あそこオシャレで美味しいらしいよ」との寿里の言葉が決定打だったのだ。 「待っってましたっ‼」  前座が高座を下りて音丸が上がると、また掛け声がかかる。掛け声とはこのタイミングでこの大きさでかけるべし、というお手本のような製菓会社社長である。  音丸の一席目は〝船徳〟だった。初夏にふさわしい滑稽噺である。散々客を笑わせて仲入りに入る。 「おなーーかーーいりーーー‼」  と声を上げるのも前座たっぱである。  落研部員たちは入り口を開放して「トイレはこちら」「チラシありますよ」などと案内を始める。  にぎわう会場の中で椅子席にいた大柄な女性、ファンサイト管理人は立ち上がって番台に近づいた。番台を境に向こう側の女湯脱衣場は楽屋になっている。仕切り扉の前に居る部員に声をかけて、女性は楽屋に入って行った。  楽屋からはその女性の古風な話し声と、たっぱの声とが聞こえて来る。三弦は番台でビデオカメラを止めて確認している加瀬教授と話しながら、仕切りの向こうを窺っていた。まるで風呂屋で女湯を覗き見る痴漢である。 「落語ってジジイがつまんねーギャグ言って座布団取り合うゲームだと思ってたけど、全然違うんだね」  まだ頬に笑いを残した寿里に背中から抱き着かれるようにして言われて「まあね」と、さり気なく身体を離すのだった。

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