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第45話 月の湯落語会
15 月の湯落語会
ふつうは三年生になると講義数も減り暇になるらしいが三弦はそんなこんなで忙しく、サークル活動には殆ど参加しなくなっていた。落語研究会では四月に新人勧誘の落語会に協力しただけだった。
大学祭をきっかけに入部した女子部員たちが〝子ほめ〟〝道灌〟などの前座噺が出来るようになっていた。落語会の前半はそれを披露して、後半は三弦と部長が落語のレクチャーをしたのだった。
ちなみに部長は引き続きあの角縁メガネの四年生である。今年見事に留年して部長の地位を保っていた(おいおい)。
柏家仁平の孫がいると大々的に宣伝して呼び込んだ新入部員は、三弦が一向に出て来ないから不満たらたらだという。
「蓮見くんさ。一度でいいから部室に来てくれない?」
と部長に懇願されるが、忙しさにかまけて放ってある。
「一度でいいから」という口説き文句は、月の湯の店主にも何度も言われた。五月中頃に開催される銭湯落語会についてである。何としても三弦に来て欲しいと言う。
「いや。何もせんでいいだ。わしゃものを知らんで落語家さんに失礼がありゃいかんで。蓮見くんはただそこにおって、気になることがありゃ注意してくれりゃあいい」
と何度も口説かれるのが面倒で引っ越したという側面がなくもない。
けれども、棺桶のように狭いワンルームのバスタブに嵌まるより、やはり広い銭湯の方が寛げる。その辺は加瀬教授に同感なのだが。それで懲りずに月の湯に行って、しまいには湯銭を受け取ってもらえなくなり、
「わかりました。ただ居るだけですよ」
と頷いてしまっていた。
三弦が何としても銭湯落語会に出たくないのは、ただ一重に出演者が柏家音丸だからである。
今となってはもう音丸とどんな顔をして会えばいいのか見当もつかないのだ。
知らんふりをしたかったのに……。
落研部員たちは既に落語会の開催にも慣れていた。店主が言うとおり、三弦はただその場にいるだけで良かった。せいぜい何か問われれば「それでいいよ」などと頷くだけの役目だった。単なる〝安心保証役〟とでも言うか。
会場は男湯の脱衣場である。落語会前日はちょうど定休日だったので、早々と室内の準備を整える。
浴室に入るガラス戸の前に会議用の長テーブルを並べて緋毛氈で覆い、座布団を置いて高座にする。そこに上がるための踏み台も置いて、脇にはメクリを据え置く。寄席文字を習っている学生の手によって記された出演者名がぶら下げられたものである。
客席は床に座布団を並べ、その後方に正座が難しい客のためにベンチも並べる。
「落語が終わったら入浴できるってさ。落語家さんにも一風呂浴びてもらおうよ。俺、背中を流してあげるよ」
という部長の提案には首を横に振った。
「音丸さんはみんなでお風呂に入るのは苦手だから。あんまり勧めない方がいいよ」
旅行などで音丸が大浴場を避けて一人部屋でシャワーを浴びるのは知っていたが、同性愛者と打ち明けられて腑に落ちた。
たぶんそれは異性愛者の自分がいきなり女湯に放り込まれるような気まずさなのだろう。
「たっぱちゃんも一緒に入ろうよ」
と湯船の縁に顎をのせて言ったこともある。
たまに内風呂で三弦の身体を洗ってくれた時である。
そんな時も音丸はシャツも下着も脱がなかった。ただ奇妙に静かな微笑みを浮かべて首を横に振ったのを覚えている。
あんな昔から音丸はそれを一人で隠して生きて来たのかと気が遠くなる思いである。
「音丸さんは高座前には何も食べないから。用意するなら軽く喉を潤す物をね。白湯がベスト。お茶は渋みが喉にひっかかる気がするって嫌がる。お土産も甘い物よりお酒だよ。一番好きなのは芋焼酎だけど」
問われればいくらでも答えられる。
「だって昔、僕のべピーシッターだったから」
と落研部員の前で妙に鼻高々に言っているのだった。何故だか知らないが、それはもう祖父が柏家仁平であることより誇らしい気がするのだった。
当日は花曇りの土曜日だった。
銭湯の外、男湯の暖簾の前に出した会議用テーブルが受付である。既に女子部員達が並んで待ち構えている。
加瀬教授と銭湯店主は楽屋になっている女湯で落語家を出迎える準備をしている。番台に据えられたビデオカメラは教授が高座を撮影する予定である。
外の駐車場では協賛商店街が出店を出している。和菓子屋、弁当屋、パン屋に洋菓子屋、文房具屋まで来ている。三弦たち落研部員がチラシを配って歩いた成果である。
三弦は加瀬教授の車を運転して、助手席に部長を乗せて長野駅に向かった。晴れ渡っていないせいか、駅構内の新幹線改札口は薄暗く見える。黒縁メガネの部長はそわそわしているが、三弦はもっと落ち着かない。
音丸と会ってどんな顔をすればいいのだろう。何よりもまず正月のことを謝らなければならない。けれど人前で迂闊に話せることではない。二人きりになった時に素早く謝らねば。
ああ、やはりこんな役目、引き受けるべきじゃなかった……と、ぐるぐる考えているところに「来た、来た」と部長に袖を引かれる。
改札口から黒い服に黒いザックを背負った長身の男が出て来た。三弦に向かってゆるりと片手を上げて見せる柏家音丸である。
それはこれまでと何も変わらないたっぱちゃんだった。正月の夜のあれは、もしかしたらただの悪夢だったのかも知れない。そんな気さえして三弦は顔をほころばせていた。
音丸の後ろには前座がいるらしいが小柄なのだろう、黒い長身に完全に隠れている。
そして二人の落語家(いや前座はまだ落語家ではないが)が三弦や部長の前に並び立った。
「今日はお世話になります」
音丸は部長や三弦に向かって深々と頭を下げた。横にいる前座も更に深く頭を下げている。
音丸の肩よりずっと背が低い前座だった。高校球児のように短く髪をカットした女性である。
三弦にすがるように袖に摑まっていた部長がにわかに元気よく声を上げた。
「咲也さん! また来てくださったんですね。学祭以来ですね!」
三弦はと言えば、あんぐり口を開け目を見開きただその顔を見つめている。
柾目家咲也である。いや、今はただの安住さくらであるはずだ。
それが何故今ここに居るのか?
一時の病的な痩身が、今やはつらつとした若い女性らしい姿に戻っている。化粧っ気のないその顔は以前より晴れ晴れと輝いている。にっこり微笑んだ口元にえくぼがあることを初めて知る。
「柾目家咲也改め、柏家たっぱと申します。よろしくお願い致します」
「え? 柏家たっぱ……って?」
と狐につままれたような顔をしているのは三弦だけではなく部長も同様である。
「昨年、落語家を廃業致しました。けれどこの春、改めて柏家仁平に入門致しまして、見習いを経て今は前座修行中です。柏家たっぱです。よろしくお見知りおき願います」
「はあ……」
魂が抜けたような声を出す二人の学生である。
「そういうわけだから、よろしく頼む」
ようやく口を開いた音丸は、三弦に言うような口調のくせに部長を見て言うのだった。
「あっ! 失礼しました、音丸さん。ようこそいらっしゃいました」
慌てて本日の主役に頭を下げる部長である。三弦は被せるように尋ねてしまう。
「たっぱちゃんの名前をあげたの?」
「命名は師匠です。空いていた名前をつけただけです」
「あ、そ、そうだよね」
一門の前座名が受け継がれるのはよくあることである。何も驚くことではないのだが。
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