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1-27 予兆
邸に戻ると、飛虎 がすでに藍歌 の傍にいた。邪魔をするのもあれなので、無明 は戻った報告だけして、昨夜の晦冥 での出来事は、また後日話すことにした。
薄青の衣が目に入って、ふと、約束を思い出す。明後日には紅鏡 を離れて碧水 に戻ると言っていた。明日、都を案内する約束だ。その時に衣を返すことにしようとひとり頷く。
衣裳を脱ぎ、いつもの黒い衣に着替える。髪の毛は面倒なのでそのままにしておく。書物や竹簡の山で埋め尽くされた文机を少しだけ片付けて、その空いた場所に伏せた。
頬にかかる髪や落ちてきた赤い紐はそのまま、近くにある書物をパラパラと適当に捲る。
「碧水、か。どんな所なんだろ。湖水の都か······綺麗なんだろうな······紅鏡も賑やかで好きだけど、叶うならいつか、他の都も見てみたいな」
『一緒に、碧水へ、』
あの時の白笶 の声が頭に響く。今なら、それもいいと答えてしまいそうな気がする。初めて会ったはずなのに、なんだか解らないが懐かしさを覚える。
覚えていないだけで、もしかしたらどこかで会ったことがあるのだろうか?
(いや、あんな綺麗な顔、一度でも会っていたら忘れないだろう)
明日また会って話をしたら、なにか聞けるだろうか。ああ、その前に宗主に許可を貰わないと、と思ったところで、意識が途切れる。
毒はほとんど抜けていたが、疲れていたこともあって、そのまま眠ってしまった。
少しして、飛虎 が入ってきた。器用な格好で眠っている無明を抱き上げ、寝台へ運ぶ。
正直、今日の無明の奉納舞や立ち振る舞いには驚いた。もう、彼を覆っていた仮面のように、隠していたモノが皆の前で晒されてしまった。
その高い霊力も、能力も、行動力も。鳥籠から小鳥が飛び立ってしまうかのように。
「無明、お前は、何を望む? 平穏や不変か、それとも変化か」
ここに留めておくのは狭すぎるだろうか。藍歌 も言っていた。このままこの小さな邸の中で終わらせていいのかどうか、と。
まだ幼さの残るその寝顔を見下ろし、頬にかかる髪の毛をそっと払う。なにかを決意するように、飛虎は邸を後にした。
****
翌朝。藍歌に頼んで、宗主に外出の許可を貰った。その時に後で本邸に寄るように託 を預かってきたようだ。
外出用の白を基調とした赤い紋様が入った衣を纏い、髪の毛をいつもの赤色の紐で高い位置で括っている。
妖退治の時とは違い、外出用の衣は公子だと解る格好をしなければならない。今までも何度かこの格好で都を歩いたことがあるが、その時は仮面を付けていたので、どこに行っても第四公子だと皆すぐに判別できた。
しかし、先ほど回ってきた店の者たちもそうだが、目の前の点心の店の顔見知りの売り子も、まったくこちらに気付いてくれない。
「白群 の公子様とそこの可愛らしいお嬢様、この店の点心はどれも甘さ控えめだが、上品で味も良いよ。日持ちもするから、お土産には最適だよ」
色鮮やかな茶請けの菓子を前に、背の高い公子の横から顔を出して、そのお嬢様はあれ? と見上げてくる。珍しい翡翠の瞳は大きく、どこまでも澄んでいた。
「紫陽花の点心、今日はもう売り切れなの?」
「ああ、それならまだ奥にあるから、今、」
売り子の青年は首を傾げる。そしてまじまじとこちらを眺め、
「ん? どこのお嬢様かと思ったら、この声、その衣······まさか無明か!? 仮面がないからどこぞの一族の令嬢かと思ったよっ」
と、大いに驚き、ばんばんとその肩を遠慮なしに叩いた。
「まったくお嬢様だなんて、目が悪くなったんじゃない?」
わざとらしく頬を膨らませ腰に両手を当て、むぅと売り子を睨む。いや、どう見ても······と売り子は頬をかいた。
「すまん、すまん。お詫びに好きなだけ点心を包んでやるよ」
「本当? じゃあこれと、それと、あれもっ」
公子様は、どれがいい? と袖を引っ張って訊ねてくる無明に、白笶は「任せる」とひと言だけ発する。こんな調子で色々な店からタダで貰った土産で、手が塞がっていく。
「それにしても、無明、隣の公子様とどういう知り合いなんだ?奉納祭のおかげで色んな一族の人たちがそこら中歩いていたが、白群の人たちが出歩く姿なんて今までほとんど見たことがない」
この売り子もそうだが、今まで訪ねた店のだれもが、無明に対して敬語を使わない。皆が皆、時に自分の息子や孫、または可愛い弟のように扱っているのだ。
「色々あって、友達になったんだっ」
「そりゃ羨ましい。こんないい男、なかなかいないぞ。公子様、無明はこの辺りじゃ皆に好かれてる良い子です。邸の連中は馬鹿にしてるようだが、他の術士たちが無視するような、どんな小さな怪異でも助けてくれるそんなお人好しなんだ。だから、大事にしてやってくれ」
「解った」
「え?」
即答した白笶に驚き、思わず見上げる。表情が全く読めなかったが、真面目に答える姿に誠実さを感じた。
夜に竜虎 としている妖退治のことを知っているこの青年は、内緒と言ったのに広めた張本人だ。
みんながみんな知っているわけではないが、土産の山はそれを知っている者たちからのものだった。
「ほら、これはお前の分。後で藍歌様と一緒に食べるといい」
「ありがと。じゃあもう行くね」
色鮮やかな青い紫陽花の形をした点心をふたつ包んで手渡すと、またな、と手を振って、常客を見送った。
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