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2-9 二刻前、森にて
二刻前。
無明 が連れ去られ、一行はほとんど会話がない状態で森の中を渓谷に向かって急ぐ。
しかし、どういうわけか同じ場所をぐるぐると回っているかのように、近づくどころか遠のいている気すらした。
「迷いの陣が敷かれているようだ」
白漣 宗主はふむと顎に手を当てて、今の状況を口にする。
「渓谷の妖鬼はそんなこともできるんですか?」
竜虎 が知っている妖鬼は低級な者ばかりで、人を襲ったり喰らったり、とにかく本能のまま行動する。殺したければ殺し、喰らいたければ喰らう。人の言葉を話すが、汚い言葉を吐くことが多い。姿は醜く、上背の大きいものから子供くらいの小さいものまで様々だ。
殭屍 より遥かに強く厄介でずる賢く、姿形を変えることもできる。等級は下級、中級、そして上級のさらに上が特級となる。
「特級の鬼は美しい姿をしていて、長く生きているため人より賢い。むやみに人を殺す必要もない。特級は数も少ないので、術士たちがその動向を常に監視している。ここに移り住んだのは十数年前のようだが、彼は我々の間では特に有名でね」
「······残虐非道、とか?」
恐る恐る清婉 が竜虎 の横で訊ねる。ふっと表情を緩めて白冰 は肩を竦める。
「彼は時に目の見えない少女を助けて、麓の村まで連れて行ったり、道を塞ぐ岩を砕いて商人たちを通してやったりと、人助けをしたと思えば、同胞であるはずの妖鬼や妖獣を、大量に惨殺してひとつの死骸の山を作り上げたりする。とにかく変わった鬼なんだ。時に黒い狼の姿で現れ、煙のように消えることから、いつからか彼を狼煙 と呼ぶようになった。真名 は誰も知らない。鬼は自分が認めた主にしか、真名を教えないからね、」
宗主や白冰が冷静なのは、渓谷の鬼が決してひとを殺さないと知っているからなのだ。
ただ、気まぐれな鬼なので、何をするか解らないという意味では、無明を早く見つけ出して保護する必要があった。
竜虎はそれを聞いて少しだけ安堵したが、ならなぜあいつが連れ去られる必要があるんだ?と疑問が残る。
(あんな女人のような格好をしていたから、興味をもたれたとか?)
それはそれで本当は男だと解ったら、とても危険なのでは········。
ぶんぶんと首を振って竜虎は頭に浮かんだ不安を掻き消す。とにかく早く見つけて連れ戻さないと。
「迷いの陣なら、俺が消してみせます。陣の力になっている媒介が解れば········」
「必要ない」
すっと前に出たのは、ひと言も言葉を発していなかった白笶だった。抑揚のないその声は誰が聞いても冷たいと感じるほどだ。
表情もいつも通り無としか言いようがないが、白冰には解っていた。
(うーん。ものすごく苛立っているな)
「森の木をすべて切り倒す」
「はいはいはいはい。それはダメ。絶対ダメ」
今にも霊剣を出して実行しかねない白笶を、閉じた扇で制止する。
森の木は殭屍 の動きを抑えるためにも必要で、それをすべて切り倒してしまえば、森から放たれて被害が増えるだけだ。
そんなことをすれば金虎 の一族が黙っていないだろう。人ひとり救うための代償としては、損害が大きすぎる。
「白笶、竜虎殿に任せるのが良案。媒介は白冰ならすぐに見つけられよう」
「············伯父上に、従います」
はあ、と白冰は大きく嘆息する。一連の言動に竜虎は立ち尽くすしかなかった。
「よし。じゃあ竜虎殿、一緒に来てくれるかい?」
「は、はい、」
ほどなくして媒介の動物の骸骨をいくつか見つけ、それを竜虎が無効化する。
金虎の一族の中でも直系の者だけが持つその能力は、どんな術式でも例外なく無効化できるという特殊な力で、無明にはその能力がないが、竜虎にはあった。
その力を利用して、四半刻 もせずに迷いの陣は容易く解けた。そのまま渓谷への道を進み、一行は夕焼けが薄闇色に半分ほど覆われ始めた頃に、長い吊り橋の前に辿り着いた。
渓谷は二つあって、手前が岩ばかりの谷で紅鏡 の地、奥が大きな滝が流れ落ちる谷で、そこからが碧水 の地になる。長い吊り橋もふたつあり、それぞれの土地の名が刻まれた岩が立っている。
「私が行きます」
「俺も行きます!」
白笶は隣に並んだ竜虎を一瞥する。また『必要ない』と言われると思ったが、意外にもなにも言われなかった。
それを肯定として、暗くて底の見えない谷に視線を移す。森を抜けるとその先の地は枯れ地で、草の一つも生えていなかった。
固い土と岩だけの地は、夕焼け空に暗闇が混ざると不気味としか言いようがない。
「では、失礼」
「え? ————ひぃいっ!?」
腕を掴まれたかと思った矢先、身体がふわりと浮き、そしてものすごい速度で落ちた。
心の準備をしていなかった竜虎は、落ちるという感覚がこんなにも心臓がざわざわするものかと思い知らされる。暗闇のせいで距離が解らず、恐怖しかない。
一瞬のような、数秒のような、もっと長かったような。とにかく、地面に立った時は衝撃はなく、それは白笶公子のおかげだったのだろう。
そしてぐらぐらする頭をなんとか平静に保ち始めた頃、視界に入った光景に言葉を失うこととなる。
そこには、衣を剥がれているというのに、大人しくされるがままになっている無明の後ろ姿と、その剥き出しの肌に触れている人の姿をした金眼の鬼が、ぴったりとくっついているという、衝撃的な光景だったのだ。
隣にいる白笶の怒りが目に見えるほど、ものすごく不穏な気配が身体を覆っている気がする。
(いや、あいつもあいつだ! 一体こんなところで鬼となにをっ!?)
心配していたこととは真逆で、その行為はどう見ても······。
(鬼と仲良くなるだなんて、どうかしてるぞ! だれとでも仲良くなるその体質をなんとかしろっ!)
まさか鬼と仲良くじゃれ合っているなどと誰が想像したか! 竜虎は頭を抱えるしかない。
しかし隣の公子は攻撃態勢だ。無明を抱きかかえた鬼と白笶のやり取りに、竜虎が横やりを入れる隙などあるはずもなく。
そして、現在に至る。
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