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2-13 甘やかさないで

 なんとか吊り橋を渡りきると、渓谷に沿って下りの細い道が続いていて、やはり一列になって続いて歩く。昼になる頃には、滝の下の大きな湖の畔に辿り着いた。  上から勢いよく落ちてくる滝の水は、湖に大きな音を立てて跳ね返り、かなり離れた場所まで霧のような飛沫が飛んで来る。  下から上を眺めてみれば、吊り橋が細い縄のように見える。あんなに高い場所から降りてきたのだという実感が湧く。  仙境のような空想のセカイに似たその光景に、無明(むみょう)は大きな瞳を輝かせていた。  湖の先は細い小川になっており、それは遠くへ行くほど大きな川になっていき、その先には小さな村がある。今日の目的地であった。 「少し休んだら、出立する。何事もなければ夕刻前には白鳴(はくめい)村に着くだろう」  昼餉は簡易的なもので済ませ、各々湖の畔で身体を休める。竹筒に水を補充して、無明はついでに顔を洗った。春にしてはひんやりと冷たい水に、目が覚めるようだった。 「竜虎(りゅうこ)、こんなすごい場所が紅鏡(こうきょう)のすぐ傍にあったなんて、信じられないよっ」 「ここはもう碧水(へきすい)だけどな」  肩を竦めて答えるが、竜虎の表情も好奇心で満ちていた。 「本で読んだんだけど、碧水の都は路が運河になってるって本当?」  後ろに立っている白笶(びゃくや)を見上げて、しゃがんだまま無明は訊ねる。  ぽたぽたと顔から滴る水が気になったのか、答えるより先に自分の衣の袖で軽く拭ってやる。 (またやってる······なんなんだ、こいつらは)  その隣で見せつけられている身にもなって欲しい。竜虎はとばっちりを受ける前にささっとその場を離れる。 「へへ。ありがとう、公子様」 「······名で、呼んでくれてかまわない」  袖を離し、少し困ったような顔で白笶は言う。歳は幾分か上ではあるが、ずっと「公子様」と呼ばれていることに不服だったようだ。前にも一度伝えたはずだったが、なぜか無明は最初だけでまた「公子様」に戻ってしまっていたのだ。 「うーん。じゃあ教えてくれる?」  見上げていた顔を俯かせて、無明は少し曇った声音で訊ねる。 「なんで俺を助けてくれるの?」  ずっと。出会ってから今の今まで。どうして他人である自分を助けれくれるのか。  いくら白群が五大一族の中で、世話焼きでお節介な性分の一族だとしても、白笶のそれは、なにか別の目的があるように感じていた。  それがなんであれ、心を許してしまう自分がいることも事実で、迷惑だとかそういう風に思ったことはなく、むしろその無償の施しに甘えてしまう。 「あの渓谷で出会った鬼も、そう。ずっと前から俺を知っているような口ぶりだった。君も、あの時言っていた。みつけられてよかった、って」  まるで、そうまるで、ずっと捜していたかのような、そんな言い回しだった。 「俺は、君にも、あの鬼にも会ったことがない。でも君とあの鬼は面識があるみたいだった。あの鬼は自分の真名(まな)まで俺に教えて、間違いないとまで言う。印についてはどういうものか解らないままだったけど、その印が何か関係あるの?」  ふざけたり誤魔化したりする必要もない。この件は、いつか話してもらいたいと思っていた。しかし道中にそんな機会はなく、今なら他の者たちは離れた場所にいて、ここにはふたりしかいない。 「俺は、君やあの鬼にとって誰なの?」  白笶は表情をぴくりとも変えない。平静で、動きのない水面のように波紋のひとつも起こさない。こんな風に訊ねられることを予想していたかのように、冷静な面持ちで佇んでいる。 「········その問いには答えることができない」  それは、予想していなかった答えだった。訊ねれば答えてくれる、そう信じていたのに。答えられないと白笶は言った。 「わかった。もう聞かない。その代わり、俺のことはもう甘やかさないで」  立ち上がり、無明は白笶の横を通り過ぎ、そのまま竜虎たちの所へ駆けて行った。  白笶はひとり音のないセカイに取り残されたかのように、目を細めてあてもなく前を見据える。  表の表情はまったく変わっていないが、心の内は大きな波が渦巻いていた。

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