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3-17 その名は、

 水の中は春の終わりにしては冷たく、なにより真っ暗だった。絡みついてくる黒く長い髪の毛のようなそれ(・・)が、無明(むみょう)を包み込むように周りに浮遊しているためであることに気付くのに、さほど時間はかからなかった。 (まずい······突然だったから、息が、······っ)  こぽっと左手で塞いだ指の隙間から気泡が零れて、遠くなっていく水面に上がっていく。そんなに深い運河ではないはずなのに、まるで底なし沼のように下も上も解らなくなる。ぎゅっと右手に握られた横笛に力が入った。 (息のできない水の中じゃ、······俺の力は役に立たない)  足に絡みついて離れないそれ(・・)は、どんどん無明を暗闇の中へと引きずり込んでいく。その度に空気が漏れ、意識が遠のきそうになった。  けれども先程から耳元で煩いくらい(わめ)かれる、異様に低かったり高かったりする声が、何度も無明を現実に戻してしまう。 (······これ、は、怨霊の集合体?)  いくら水がそういうものを呼び込みやすいと言っても、この怨霊の数は尋常ではない。しかも都は玄武の宝玉の恩恵を一番近くで受けている地だ。こんなモノが自然に集まるはずがないのだ。 (······もう、これ以上、は)  こぽこぽと先程よりも多くの気泡が口の隙間から零れ落ちていく。抑えていた手も力を失くし、真の暗闇に視界が染まる。声は相変わらず喧しく、再びこちらに引き戻そうとする。その度に苦しさが増し、頭が痺れてくる。 『————忘れないで?』  ふと、誰かの声が頭の中に響いた。あれは、あの声は、誰のものだったか。 『————これはあなただけに捧げる名だよ』  名前、を呼べと。  その声は告げる。その声は、あの喧しい怨霊たちの声を掻き消して、無明を暗闇から光の方へと引き戻す。 (·····きょ······げ、つ········鏡月(きょうげつ)っ)  水面があるだろう方向に、横笛を掲げるように伸ばす。沈んでいく身体。朦朧とする意識。  薄れていく視界に、ぼんやりと柔らかい金色の光が生まれた。  それ(・・)は、怨霊の塊を突き破って真っすぐに無明の所にやってくると、迷わず腕を掴んで身体を引き寄せ、大事に抱きかかえるように、水面に向かって泳いでいく。  怨霊たちは叫び声を上げ、今度はふたりを捕らえようといくつもの黒い触手を伸ばした。 「八つ裂きにされないと気が済まないらしい」  ふっと口元を緩め、水中で言葉を紡ぐ彼は、意識を失ってしまった無明を見下ろして、それからその金眼を触手の核に向ける。  水中に漂う髪の毛ような気色の悪い触手は、再び獲物を取り戻そうと、こちらをしつこく追って来る。  金眼の妖鬼は、なぜかぴたりと動きを止めた。  それを好機と無数の触手がふたり諸共喰らおうと、四方八方から包み込むように再び暗闇に引きずり込んだ。  しかし、丸い球体のように水中に形成されたそれ(・・)は、獲物を捕らえたと満足するのも束の間、今度は運河の水が天にでも昇るような勢いで舞い上がり、その姿を露わにされる。  その上空には、薄青の衣を纏ったもうひとりの獲物の姿。欲張って取り込もうと触手を伸ばすが、獲物に触れるどころか、その鋭く細い触手が先の方からみるみる凍っていく。  よく見れば、運河の水が黒い球体になっている怨霊の周りを囲むように聳え、氷の壁となっていた。 (······あれは、)  怨霊の集合体となっている球体が氷に完全に覆われる前に、突如、内側からみるみる大きく膨れ上がり、半分覆っていた氷と共にそのまま勢いよく弾け飛んだ。  破片になった黒い物体は、露わになっている地面に溶けるように消えていき、怨霊の声はもはやどこにも存在しなくなった。  視線が重なる。  金眼の双眸が、冷ややかに白笶(びゃくや)を見上げてくる。 「あんたになら、このひとを任せてもいいかなと思ったけど、どうやら期待外れだったようだ」  言って、狼煙(ろうえん)は抱えていた無明を抱き上げ直し、白笶の言葉を待つことなく、その場から煙のように消え失せた。

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