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3-18 狼煙の行き先

 後悔していた。  無明(むみょう)が運河に呑み込まれ、あの渓谷の妖鬼が、突如結界を破ってあの怨霊の塊へと向かって行った。  この領域結界が誰が張ったのもので、なんのために張ったのか気付いた時、隠していたもうひとつの力を使うかどうか、その一瞬の迷いが明暗を分けた。結果、無明を危険に晒し、挙句、渓谷の妖鬼に再び連れ去られた。  水龍は運河に戻り、領域結界も消え、元の静寂を取り戻す。  あの怨霊がどこから来たのか、なんのために怪異を起こしたのか、よく考えれば解ることだった。  白鳴(はくめい)村で起こったあの悲劇。すべては大量の怨霊を作り出すための布石でしかなったのだ。  湖水の運河は玄武の宝玉の恩恵を受けており、上流から時間をかけて流れてきた怨霊たちは、徐々に穢れを膨らませ、陰の気を纏い、そして神聖な水龍を邪龍に堕とした。  水が穢れれば、宝玉はそれを浄化しようと穢れを吸う。必要以上の穢れを一気に取り込もうとすればどうなるか。  それは非常に手間をかけ、綿密に練られた計画。しかし、あの時の黒衣の少年が、ひとりでそれを思い付いたとは考えにくい。  彼はとても感情的で、どちらかと言えば命をしぶしぶ遂行していたように見えた。  だからさっさとあの場から消えた。最終目的は宝玉を奪うこと、ではない。四神の代わりである宝玉を穢れさせ、この地の守護を消すこと。  白鳴村のすべての村人の命を犠牲にして、あの怨霊の塊を作った。あの黒衣の少年の本当の目的は、これだったのだ。 (あれが傍にいるなら、無明は安全だろう、)  白笶(びゃくや)は本当はすぐにでも無明を取り戻しに行きたかったが、白群(びゃくぐん)の公子として、この事態を報告する必要があった。  その表情はいつものように無に近く、しかし隠れている袖の下で握りしめた拳は、爪が手の平に食い込むほど強く握られていた。 ****  湖水の都である碧水(へきすい)は渓谷に囲まれており、白群の一族たちの住まう敷地の裏手には霊山が聳え立つ。霊山は神聖な地で、穢れひとつ、妖者一匹立ち入ることはできない。  玄冥(げんめい)山。宝玉が封じられている場所から、遠く離れたその霊山の頂上近くに、白群の一族さえ知らない古い洞穴があった。その奥には何百年も前に忘れ去れた祠が、ひっそりと建てられていた。 「ホント、いつ来ても陰湿な祠だよね」  その明るい調子の声に、祠の主は特に何か言うわけでもなく、ただ、その者が連れてきた客人の方に驚く。彼の腕の中で、ぐったりしている少女のような容姿の黒い衣の少年に、思わず駆け寄った。  そして今度は眉を寄せて咎めるような眼差しで見上げてくる。 「なぜ連れて来た」 「だって、あの感じだと日の出前には、宝玉が取り込みすぎた陰の気で砕ける。宝玉の代りなどない。そうなれば、この地は穢れでどうしようもなくなるんじゃない?」  相変わらずふざけた口調で、その者は笑みを浮かべながら、わざとらしく肩を竦めて見せる。祠の主はそれ以上追及するのを止めた。 「とにかく、こちらへ運んで。慎重に」  肩までの長さの黒髪と、穏やかな青い瞳。二十代前半くらいにしかみえない、色白で端正な顔立ちの青年は、白い衣の上に肩までの長さの黒い衣を纏い、赤い腰帯を巻いていた。両耳には黒い小さな石が飾られている。  石でできている平らな机の上に置かれた、小さな灯篭の灯りに照らされているだけの洞穴は、薄暗く、確かに陰湿だった。 「鬼子よ、お前は何を考えている。神子(みこ)は私との契約を望んでいない。契約は一方的には行うことはできないし、そこには神子の意志が必要不可欠」 「神子は優しいから、この事態を放ってはおけない。あなたがちゃんと正面切って話をすれば、俺たちの主は応えてくれるよ」  石の机の上に布を敷き、青年は無言でここに寝かせてと視線を送る。 「逢魔(おうま)、それは脅迫や強制と同じだ」 「その名で呼ぶな」  先程まで穏やかだった金眼が、冷たい色を浮かべ、青年を睨みつける。青年は眼を細め、呆れたように嘆息する。 「······その名を呼んでいいのは、この世にふたりだけ。あんたは親族みたいなもんだけど、資格はないよ、太陰(たいいん)兄さん」 「面倒な奴だな。昔は何も言わなかったくせに。では、今の名は、狼煙(ろうえん)? だったか。似合わない名だな。とにかく、まずは神子が目を覚ましてからのいい訳でも考えておけ」  はーい、と一変して軽い返事をし、少年を大事そうにゆっくりと石の机の上に置く。  そんな狼煙に、この祠の主である玄武、太陰は、先程よりもずっと深いため息を漏らすのだった。

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