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3-26 碧水の希望

 碧水(へきすい)の都から人が消えた。消えた、というのは間違いで、白群(びゃくぐん)の一族による迅速な対応によって、避難したというのが正解である。  では大勢の民はどこへ行ったのか。  霊山の麓、白群の一族が住まう敷地内は、碧水の地の中でどこよりも安全な場所と言えよう。  霊山の神聖な霊気と、邪悪な存在を決して寄せ付けない結界。守るべきはこの地の民であり、そのために術士たちはいる。 「皆、混乱は承知の上で、今から話すことをしっかりと聞いて欲しい」  それは一刻半前に、白冰(はくひょう)が避難させた民たちの前で口にした言葉だった。  民たちは誰一人として文句を言うことはなく、宗主の代わりに目の前に立つ白冰に注目する。  その声はどこまでも人を安心させるような不思議な魅力があり、同時に揺らぐことのない心強さも生まれる。 「数えきれないほどの妖者が、この都へ向かっている。このような事態になったのは、我々の不徳の致すところ。言い訳をする資格もない。皆に不安を与えてしまったこと、本当に申し訳なく思う」  白冰は初めに深く頭を下げた。民たちは口々に、そんなことは絶対にありえない、頭を上げてください、と騒めく。公子自らが頭を下げ、自分たちの前で謝罪をするなど、あり得ないことだと皆が心の中で否定する。 「都も、皆も、我々がなんとしても守り切る。夜明けまで、東の渓谷に太陽が昇るまでのあと約一刻半の間、どうか信じて待っていて欲しい」  狙われているのはこの都だけで、他の地からの報告はない。つまり、敵は一族と都のみを標的としているのだ。  民たちは白冰の言葉に胸を打たれ、不安がないと言えば嘘になるが、なによりも自分たちの先導者を疑うことなどあり得なかった。  白冰が守り切ると言っているのだ、それ以上心強いことはない。    そしてその言葉の通り、民はひとりとして犠牲になることはなかったのだ。 ****  夜明けまであと約一刻ほど。  竜虎(りゅうこ)雪鈴(せつれい)たちと共に無限に湧いてくる妖者たちを相手に、奮闘していた。  妖者は殭屍(きょうし)と妖鬼の群れで、いずれも傀儡(かいらい)だった。統率のとれた妖者たちは、明らかになにかを目的として動いているようにしか見えない。  こちらも白冰の指示の下、戦いの前に皆に配られた見たことのない術式の符によって、効率的に動けている。  その符は不思議なことに、頭に直接白冰の声が響き、周りにはまったく聞こえない。 『怪我を負ったものは無理をせず、結界の内側へ退くこと。我々の最終目的は、妖者の群れをすべて滅することではなく、夜が明けるまで時間を稼ぐこと。それまでは私の指示の下、誰一人として欠けることなく、この地を守り切る』  竜虎は白群の連携もさることながら、白冰の采配の完璧さに感心していた。 「竜虎殿、巻き込んでしまってすみません」 「謝られるようなことは何もない、ぞっ」  細身の霊剣、王華(おうか)を振るいながら、殭屍(きょうし)を倒していく。背中合わせになって、雪鈴(せつれい)が申し訳なさそうにそんなことを言うので、首を傾げた。  雪鈴は、柄の先端に龍の紋が入った環首刀の形をした霊剣、氷龍(ひょうりゅう)を握り、ふっと口元を緩める。 「ありがとうございます、」  霊剣、氷龍の刃は透き通っていて、まるで氷でできた剣のようだ。その威力はひと振りで殭屍(きょうし)の身体を真っ二つにするほどで、雪鈴の強さと脆さを象徴しているようだった。 「雪鈴、陣を」  ふたりの援護に回っていた雪陽(せつよう)が、腰帯の後ろに差している短剣を手に取り、頷く。  雪鈴も同じように頷き、右手に霊剣を握ったまま左手に短剣を握り、同時に地面に突き立てた。  ふたりは白冰が示した場所で、少しの狂いもなく陣を展開する。 「雨?」  目の前に展開された『雪華(せつか)』の陣で、十数体の殭屍(きょうし)と妖鬼の足が氷漬けにされ、同時に漆黒の空から雨が降り注ぐ。上空に白群(びゃくぐん)()家の陣がいくつも展開される。 浄化の雨はそこに存在する妖者たちを濡らし、逃げ場のない無数の雨の雫に、次々と悲鳴が上がる。  それは遠くまで響き渡り、竜虎たちの周りの妖者たちだけでなく、この辺り一帯の妖者たちを苦しめていた。 「今度は霧? ()家の陣か」  雪華の陣が雨と霧の効果なのか、先程よりも威力を増し、雨と霧を浴びた妖者たちの身体をみるみる凍らせていく。  そして辺りは浄化の霧に覆われ始め、雨、霧、雪が交じり合って、この漆黒の闇を照らすように、青白い光を帯びていた。  しかも霧が目眩ましとなって、(せつ)家の陣へと誘い込まれる。  雪鈴と雪陽の陣以外にも複数の雪華の陣が展開されており、最終的にはそこで妖者の足は完全に止まるのだった。

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