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4-3 泣かないで

 玄冥山。玄武洞。  氷楔(ひょうせつ)から解放され、そのまま倒れ込んできた無明(むみょう)を、白笶(びゃくや)狼煙(ろうえん)が同時にそれぞれの腕で抱きとめた。  狼煙はそのまま白笶(びゃくや)に委ね、何も言わずに横に控えた。  白笶は大事そうに抱きかかえたまま、ゆっくりと地面に膝を付く。そして膝の上に頭を乗せて、無明の頬をそっと拭う。  涙。  それは拭っても拭っても流れてくる。狼煙は眼を細めて、その光景を見ていた。一体、どんな夢を見たら、そんな風になるのか。あの中で、何があったのだろう。 「太陰《たいいん》兄さん、あの氷楔(ひょうせつ)はなんなんだ? なんでこんな状態になる?」 「私に当たるな。あれは神子(みこ)たちが残したもの。私たち四神に託した記憶の欠片だ。契約の書き換えのための空間で、私もその内容は知らない」  しかし消えたということは、契約が終了した証。現に、太陰(たいいん)には自覚があった。 「契約は結ばれた。神子の命で、いつでも陣を展開できる」 「······結局、こうなるのか」  白笶は苦虫を嚙み潰したように顔を歪めて、無明の涙を拭い続ける。悠久の時の中で、神子を望んでいたはずだった。けれども、このひと月の間でその願いは変わっていった。 (できることなら、神子としてではなくて······)  ただ、普通に、生きて欲しかった。だが結局、流れは止められなかった。 「無明?」 「神子!?」  瞼が震え、ゆっくりと翡翠の瞳が開かれる。白笶と狼煙は同時に声をかけた。  無明はぼんやりとした表情で、視界に映るふたりを虚ろな眼で見つめる。頬を伝い続ける涙を自分で拭い、けれどもどうやっても止まらないので、顔に右腕を乗せたまま、暗闇の中で気持ちを整理する。 (······俺は、神子なのかもしれないけど、でも、俺は、)  真実を、知ってもなお。それを認めたくない自分がいる。 「大丈夫? どこか痛むの?」  狼煙が小さな子供のように、心配そうに声をかけてくる。  伝えてあげないと。解放してあげないと。でも、それで彼らは救われるの?  ずっと、支えにしてきた者に、自分の事はもう忘れて、新しい人生を生きて欲しいなんて。もう待たなくていいよ、なんて。  そんな、残酷なこと。 「······無明、」  名前。自分の、名前。けれど、本当の名は、誰にも言ってはいけないと藍歌(らんか)が言った。なぜなのかずっと疑問だった。  どうして自分は、無明なのか、と。  白笶はそっと頭を撫でてくれた。本当に逢いたいひとは、自分ではないはずなのに、そうやって自分を甘やかしてくれる。名前を、呼んでくれる。 「······うん、大丈夫だよ、」  せめて、大事な事は伝えてあげたい。だって、それが神子の願い。 「神子に逢えたよ。始まりの神子と、白笶が大事に想っていた神子に、」  口から零れた言葉に、自分で傷付く。 「······そうか、」  顔を覆ったまま、無明はその声に耳を傾ける。それはどこまでも優しい声だった。大切なひとを想う、とても優しい声。 「永遠の輪廻の制約は、自害すること以外は嘘だったって······長い時間、縛ってごめんって········ありがとう、って言ってた。自分はもういないから、君が守りたいひとを守ってあげてって········それは、君への言葉で合ってる?」  顔を見れない。白笶はきっと悲しんでいるだろう。もしかしたら、もう、傍にはいてくれないかもしれない。笑いかけてくれないかも。    最近は少しだけ笑ってくれるようになった。出会った時からずっと、その眼差しはいつも優しかったが、表情は完全には読めなかった。  けれども、ずっと一緒にいたら、少しだけだが笑ってくれるようになった。声を上げて笑うことはなかったが、それでも嬉しかった。  誰かが笑ってくれるのは、嬉しい。白笶が笑ってくれると、安心する。  でも、今は··········。 「そうか······()の知る宵藍(しょうらん)は、もういないんだな。頭では解ってはいたが、」  無明は突然紡がれた名前に、耳を疑う。そして、言っている台詞とその言葉の温度に違和感を覚え、覆っていた腕を少しだけずらす。  そこには、想像していたような顔ではなく、穏やかな表情で見つめてくる白笶がいた。 「ありがとう、伝えてくれて」  遠慮がちに、指先だけ頬に触れられる。無明はあの日のことを思い出す。  紅鏡(こうきょう)で、あの夕暮れの中で、別れ際に白笶が頬に触れようとして、止めた時。なんだか寂しくなって、その下ろされた手を握り締めた。 「私は平気だ。だから、もう、泣かないで欲しい」  何度拭っても零れてくる涙は、その言葉のせいでますます止まらなくなる。 「あんたは、本当に神子の涙に弱いよね、」 「逢魔(おうま)、すまなかったな」  狼煙は肩を竦めて首を振る。大体事情は先ほどの会話で把握できた。自分の知る『あのひと』は、やはり目の前の者だったということ。今、この瞬間、あの遠い日の思い出が甦った気がする。 「逢魔? それが、君の名前?」 「うん、そうだよ、神子。遠い昔にこのひとに付けてもらった名だよ」  白笶を指差して、にこやかに逢魔は言った。

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