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4-6 悔恨と憂慮

 紅鏡(こうきょう)金虎(きんこ)の別邸。  明け方近くに、遠く北の空に咲いた薄青に光る陣を見上げ、藍歌(らんか)はひとり愕然としていた。この国の五大一族や術士たちにしてみれば、朗報でしかないあの希望の光は、藍歌にしてみれば絶望でしかなかったのだ。  光架(こうか)の一族は誰もが知っている。神子の証である、特殊な痣。無明(むみょう)が生まれた時に、それは小さな身体に花でも咲いているかのように浮かんでいた。五枚の花びらが集まったかのような、そんな模様の痣だ。  それを見た藍歌はすぐにその痣を布で隠した。赤子を蝕む強い霊力は、宗主に頼んで特別な宝具で抑えることができた。そして何者にもなれないように、無明という名を付けた。もうひとつの名は、本人にだけ伝えてある。 「結局、守れなかったのね、私は」  神子になど、なって欲しくなかった。それは苦の始まりでしかないからだ。この十五年間、晦冥(かいめい)は何事もなく、かつての闇はもう消滅したのかもしれないと期待もしたが、結局、ただ神子が本当の意味で目覚めるのを待っていただけだったのだ。 「あのまま、ここに閉じ込めておけば良かったの? ううん、きっと、最初から、こうなる運命だったのね、」  ただ平穏に、無事に、生きていてくれれば良かったのに。 「こうなったのは、私が愚かにも罠を見抜けなかったせい」  すべては点と点で結ばれており、物事には意味がある。 (敵は、金虎の中に入り込んでいる、ということ)  あの日から、ずっと、この時を待っていたのだろう。無明が力を解放し、他の一族たちの前でその姿を晒した時から。いや、もっと前からかもしれない。生まれたその瞬間から、こうなることは決まっていたのだ。 「けれど、きっと、あの子なら、」  何者にもなれないということは、何者にもなれる可能性があるということ。そしてもうひとつの名が、無明に光を齎すだろう。  藍歌はゆっくりと瞼を閉じる。祈るように。 (どうか、あの子をお守りください)  眩しい光の欠片が東の空に顔を出す。あの光は希望か、それとも。  動き出した歯車を止めることなど、誰にもできないと知りながら。 ****    碧水(へきすい)白群(びゃくぐん)(はく)家。別邸。  清婉(せいえん)はあの騒動の間、負傷した術士たちの手当てを手伝ったり、薬を調合したり、とにかく休む間もなく内弟子たちに混ざって働いていた。内弟子たちはまだ実践に参加することは許されておらず、皆、もどかしい想いを抱えてるようだった。  酷い怪我を負った者もいたが、それでも誰ひとり欠けることなく、碧水の民たちも無事だった。白冰(はくひょう)はあの言葉通り、この地を守り切ったのだ。  そして、あの光の雨。美しい紋様の陣が藍色の空を照らした時、神様でも降りてくるのかと思った。  事実、あれはこの地の四神、玄武の陣だったと後で聞いた。従者である清婉でもそれくらいの知識はある。  この地は四神と黄龍によって守られていたが、神子が生まれなくなってからは、その恩恵を完全には受けられなくなったという事。  無明が舞った、あの四神奉納舞を目にした時、まるで天女のようだと清婉は心の底から思った。 (無明様の傍にいると、不思議な事ばかり起こる)  まさかあの陣まで彼の仕業だったらどうしようかとも思ったが、白冰が言うには、なぜ玄武の陣が現れたのかは解らないらしい。あの白冰がそういうのだから、そうなのだろう。 (もしかして、この地に神子様が通りがかって、助けてくれたのかも)  などと、清婉はひとりで納得していた。昼に近い時間になっても、ふたりはまだここに戻って来ていない。そろそろ昼餉の準備をしないといけないが、どうしてもふたりを出迎えたくて、借りている別邸で待っていたのだった。  何の気なしに扉を開けて渡り廊下に出ると、遠くからふたつの影が近づいて来るのが見えた。ぱっと明るい表情になった清婉は、思わず名を呼ぶ。 「竜虎(りゅうこ)様、無明様! おかえりなさいっ」  かけられた声に、竜虎と一緒に戻って来た無明が、こちらにぶんぶんと手を振っている。 「清婉、ただいまー!」  その声は、いつものように明るく、見たところ、ふたりとも目立つような大きな怪我もしていないようだった。衣はだいぶ汚れていたが。 「すまないが、こいつに何か食べさせてやってくれ。腹が減ったと連呼して、喧しくてしょうがない」 「はい、すぐにお持ちしますね! その間に衣を着替えておいてください。脱いだ衣はこの籠に入れておいてくださいね? まとめて洗濯しますから」 「はーい」  無明は右手を翳して返事をする。やれやれと疲れた顔で竜虎がその様子を見ていた。  あんな大変なことの後でも、彼らは遊んで帰って来たかのような何でもないという顔をしているので、清婉もまた気が楽になった。  なにも聞かず、なにも知らないふりをするのが、従者の心得だと両親が言った。故に、清婉はふたりに何かを問うのは止める。  そして早足で厨房へと向かうのだった。

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