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5-28 失ったモノ
――――十年前。
蘭明 が八歳、朎明 が六歳の時だった。
竹林の中で遭遇してしまった凶暴な黒い犬の妖獣に、襲われた。都から少し離れた場所にあるその場所は、下級の妖者くらいはいるものの、妖獣など今まで存在しなかった。
宗主である母と、違う邸で暮らす父、数人の術士たちと共に、妖者退治に来ていたのだが、ふたりはいつの間にか逸れてしまったのだ。
運が悪いことに大人たちの気配はなく、たったふたりだけの所にそれは現れた。
大人たちからすれば、だだの大型の犬ほどの大きさの妖獣だったが、幼いふたりにとっては見え方が全く違った。獰猛な黒い獣はぐるぐると剥き出しの鋭い牙をこちらに見せて、威嚇してくる。
蘭明は妹である朎明 を守ろうと、前に出て手を広げ、震えながらもなんとか黒い犬を睨みつける。その眼には涙が浮かび、どんどん視界が歪んで掠れてしまう。ぶんぶんと首を振り、なんとか意識を集中する。
「····姉さま、怖い」
「大丈夫よ、朎明 。じっとしていれば、きっと、どこかへ行ってくれるわ」
自分の後ろでぎゅっと衣を握り締めてくる朎明 を安心させようと、蘭明は優しく、できる限りの冷静な態度で答える。
朎明 と黒い犬、交互に視線を向けながら、じりじりとこちらに寄って来ている妖獣に、内心焦りを覚える。
(母様、······父様っ)
蘭明の祈りは届かず、妖獣は勢いよく襲い掛かって来た。思わず突き出した細い腕に犬の鋭い牙が噛み付き、貫通する。
右腕に激痛が走る。同時に、強い陰の気が身体の中に流れ込んでくる不快さに、悲鳴を上げることすらできなかった。
「誰か助けて! 姉さまが殺されちゃう!」
自分の後ろでその光景を目の当たりにし、混乱して叫ぶ朎明 。いけない····と蘭明は途切れそうな意識をなんとか繋いで、再び腕の痛みに耐える。妖獣の視線が朎明 を捉えているのが解った。
「妖獣さん、私の方が美味しいわよ!」
蘭明は噛み付かれたままの腕を引っ張り、妖獣の気を引く。
引っ張られたことによって、自分の獲物を獲られたと思い再び嚙む力が増す。そのまま引きずられるように蘭明の足が地面から離れた。
宙に一瞬浮いたと思えば、地面に右腕以外が叩きつけられる。妖獣は蘭明の右腕を咥えたまま、獲物が弱るのを待つかのように、右に投げたり左に投げたりした。
(もう、駄目、)
地面に身体を叩きつけられる痛みと、腕の感覚が無くなっていく恐怖。このまま意識を失えば、本当に、もう、死んでしまうかもしれない。
閉ざされていく視界の中、妖獣の悲痛な悲鳴が響き渡る。
「蘭明! 朎明 !」
それは、宗主であり母の声だった。妖獣の口から右腕が解放され、そのまま放り出された身体を、地面に付く前に誰かに抱き止められる。
「····とう、さま、私、ちゃんと朎明 を、まもった、わ」
「ああ、よくやった。もう、大丈夫だ。君を虐めた妖獣は、宗主が倒してくれたよ」
ああ、良かった。朎明 は泣いているけど、怪我はないみたい。宗主に抱き上げられ、涙を拭われている。もう大丈夫。
私はお姉ちゃんだから、妹を守らないといけないのだ。私、ちゃんと守れた、よね?
「朎明 、良かった。どこも怪我をしていないわね? 大丈夫よ、もう怖くないわ」
どうして?
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!
腕の感覚がない。
私の右腕、どうなってしまったの?
「これは、もう····、いや、····早く邸に、」
「その子は大丈夫なの?」
「薊明 、」
父様、どうしてそんな顔をするの?
教えて····私、もしかして、死ぬの?
「命に別状はないが、これでは、もう····武芸は無理かもしれない」
「蘭明は当然のことをしたのよ。朎明 を守って負った怪我なら、誇りに思いなさい」
「薊明 、君ってひとは、蘭明がこんな状態だというのに!」
喧嘩、しないで。私は大丈夫よ。だって、もう痛くないもの。
そのまま意識が無くなる。再び目が覚めたのは一週間後だった。夢であったなら良かったが、目覚めたその瞬間から悪夢が襲った。蘭明はその事実に、しばらく立ち直ることができなかった。
数日の間は、右腕の肘から下、指の一本も動かせない状態だった。一年かけてなんとか物が握れるようになり、さらに数年かけて細かい作業ができるまでに回復した。
しかし、一番必要としていた武芸への復帰は叶わず、どれだけ血の滲むような努力をしても、どうにもならなかった。
それから自分にできることを探し、なんとか役に立てるようにと、宝具を使いこなせるように頑張った。妹たちのお世話もした。
いつも笑顔でいるようにした。この腕に対して、朎明 が負い目を感じないように。
本当に褒めて欲しいひとには、届かないと解っていても。
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