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5-27 狂いだした歯車

 蘭明(らんめい)は突然走った強い痛みに、胸を押さえて地面に膝を付いた。真っ青な顔で一点を見つめる。 「まさか、こんな、」  想像もしていなかった事態に、指先が震えていた。こんなこと、あり得ない。あるはずがないと混乱する。そして、もうひとつの人形になぜか視線がいく。    邪悪な気配を発し、人形がゆらりと立ち上がる。あるはずのものがまだない、その空虚な瞳の奥の闇が、きらりと光った気がした。 「どう、して」  聞こえてくるその声は、確かに十人の少女たちの声だった。頭の中に直接響くその声に、どうにかなりそうだった。覚めるはずのない夢が終わり、現実という残酷なセカイが広がる。  人形は一歩一歩近付いて来る。その不気味さは蘭明に少なからず恐怖を与える。こんなことになる前に響いた笛の音。  あれは、まさか、あの第四公子の仕業だろうか。 『返して帰してかえして』  失った身体を、自分たちの帰る場所を、もう戻らない時間を。  立ち上がる気力もない蘭明の瞳に、その指先が触れようとしたその時、人形部屋の扉が勢いよく破られた。結界を張っていたはずなのに、いとも簡単に砕かれた扉。  その先にいたのは、良く知る者たちだった。 「姉上····もう、止めてください」  強い口調で朎明(りょうめい)は見下ろしてくる。背の高い彼女から見下ろされるのは慣れていたが、その眼は今まで見たことがないくらい冷たかった。  当たり前だ。  自分がしたことは、決して赦されないだろう。この手はもはや血がこびり付いて、いくら洗っても拭えない。 「蘭明姉様、なんでこんなことを? せめて理由を聞かせてよ!」  その横で椿明(ちゅんめい)が涙目で問う。  理由?  そんなもの、ない。  ただ、したいことをしただけ。完璧な人形を作るという、欲望を叶えたかっただけ。それのなにが悪いのか。 「ふたりとも、それも大事だが、今はあの幽鬼をなんとかしないと!」  金虎(きんこ)の公子がふたりを諫める。 「陰の気が異様なくらい溢れてる。なんでこんなことにっ」  それは、宝玉が砕け散ったからだろう。今まで浄化されていたはずの穢れや陰の気が少しずつ放出され、この地に影響を及ぼしているのだ。  そんなことを知らない竜虎(りゅうこ)たちは、この事態をどう治めるべきか考える。  朎明(りょうめい)は霊弓朧月(ろうげつ)を出現させ、椿明(ちゅんめい)もまた霊槍残月(ざんげつ)を手に握りしめた。  竜虎は先程の結界牢の無効化で最後の霊力を使い果たしてしまったため、助言くらいしかできない。 「とにかく、蘭明殿は俺が見てるから、そっちに集中してくれ!」 「恩に着る」 「ありがと、竜虎殿!」  朎明(りょうめい)椿明(ちゅんめい)がふたり並んで前に立つ。眼球のないつぎはぎの少女の人形は、蘭明に執着しているようで、今にも襲いかかりそうな態勢だった。  そこに朎明(りょうめい)が迷いなく弓を射る。その矢は幽鬼と化した少女の額を貫き、同時に幾重にも重なった悲鳴が上がった。  椿明(ちゅんめい)はその声に身が震えた。この少女たちに一体何の罪があったというのか。  弄ばれたその身体の繋ぎ目に、蘭明の狂気じみた感情を思い知る。 (母上、私は、)  母である宗主が自分に言った言葉が頭を過った。 「あなただけでも、どうにかしてここから出す方法を考えるわ。もし、ここを出ることができたら、」  その続きが、頭から離れない。 「あなたが、蘭明を――――なさい」  強い口調は、この声音は、鎖のように椿明(ちゅんめい)を縛り付ける。槍を握る指先の震えが止まらない。 「椿明(ちゅんめい)、私は遠距離からしか狙えない。隙を作るから、頼んだよ」 「わ、わかった!」  先程の一撃で怯んだが、額を貫いた矢が刺さったまま、幽鬼はまだそこに立っていた。  それどころか、その刺さっていた矢を握り締め、引き抜いて投げ捨ててしまった。霊気でできたその矢は地面に刺さり、そのまま消失する。  椿明(ちゅんめい)はちらりと蘭明に視線を巡らせ、そのまま幽鬼を睨みつけた。三日月に似た槍の先を向け、構える。それはまさに一瞬だった。  踏み込んだ足で勢いをつけ、そのまま幽鬼の方へ飛び込み、一度防御した腕を弾く。  そこから間髪入れずに心臓があるだろう場所に向かって、その切っ先を突き出して串刺しにすると、思い切り横に薙いだ。  幽鬼の身体は部屋の奥へと飛ばされ、そのまま壁に背中を打ちつけ、ずるずると床に滑り落ちるように座り込む。  動かなくなったのを確認し、朎明(りょうめい)は今度こそ、と跪いたままの蘭明の前に立った。 「姉上、どうか、無駄な抵抗はしないでください」  蘭明にはまだ宝具がある。あの宝具の効果を知っているからこそ、隙を作ってはいけないと強気のまま朎明(りょうめい)は言う。  どうしてこんなことになってしまったのか。  自分のせいかもしれない、と心のどこかで思う出来事があった。ずっと、子供の頃の、こと。  蘭明が自分を庇って大怪我をし、それ以来武芸を学ぶことができなくなったのだ。  気にしないで、と蘭明は言った。  しかし朎明(りょうめい)は、それ以来蘭明に対して負い目を感じていた。  自分のせいで武芸の道を閉ざされた姉と、のうのうと武芸を学び、姮娥(こうが)の一族の能力もあり、次期宗主だなどと期待もされていた自分。 「姉上、すべてを語ってくれますね?」  蘭明はくすりと音を立てて笑った。その笑みに、朎明(りょうめい)は不安を覚える。  その口から語られる言葉を、恐れていた。  聞きたくない気持ちと、聞かなければならない使命感と。  その繰り返される葛藤が、彼女の表情を余計に曇らせるのだった。

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