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 忘れたい過去がある。忘れたくても忘れえぬ、たえがたい過去が。  もう二十年も経つのに繰り返し夢に見る。  東京の下町の小さな一軒家の客間で、深紅の血溜まりに沈む母の顔は蝋のように白く、動く気配のない(むくろ)はすでに死人のそれだった。変わり果てたその姿の前で振り返った男の双眸は、驚くほど不気味に淡く、異様な光り方をしていた。  男の表情は碧斗(あおと)を認めるなり般若と化す。  刹那、男は血に染まったナイフを頭上に振りあげ、心底ぞっとするような唸り声をあげて、碧斗へと突進してきた。突然のことに足がすくみ、なす術なく碧斗は硬直した。  六歳だった己の息子を、彼はどんな気持ちで殺そうと思ったのか。あの時、あの男は確かに狂っていたのだから、子殺しなどなんとも思わなかったのか。  止めてくれたのは、碧斗と一緒に帰宅していた祖母だった。 「何をするんだ!」  碧斗とそう変わらない小柄な体躯で父に立ち向かってくれた。それで碧斗は、はっと我に返ったのだ。待ったなしの状況を咄嗟に把握し、一番になすべきことを考えた。  若い頃に中学の体育教師だった祖母は小柄でも腕っぷしは強い。なんとか持ちこたえてくれるかもしれない。祈るようにそう念じ、碧斗は急いでキッチンへと走った。  武器が欲しかったのだ。あの狂った男と戦える何かを手に入れねばならないと思った。だから、もみ合う二人を客間に残してその場を離れてしまった。――が。あの判断は、間違っていたのだろうか。  あの時、素手でも祖母と一緒に戦っていたなら、その後の時の流れは変わっただろう。少なくとも自分の運命は確実に変わっていた…と、碧斗は今でもしばしば考える。  碧斗が包丁を手にして戻った時には、膝をついてしゃがみこんだ父がすでに祖母の胸にナイフを突き刺していた。祖母は縋るようなまなざしを一瞬、碧斗にとどめた途端、事切れた。いつか見た悪夢の続きのようだった。  愕然とする思いと。母と祖母とを失ってしまった悲しみと。  次は、自分が襲われるのだという恐怖。  渦巻くそれらの感情が、一瞬のうちに鮮烈な具現となって碧斗を襲った。 すべての感覚が凍りつき、時間が止まった。  わずかな隙も与えてはならなかった。目の前の男に立ちあがり振り向くひまを与えてはならない。迷わずに、全身全霊を込めて、この手に握った武器でその巨体を倒さねばならない。  武者震いに全身が震えた。  母と祖母の命を奪った、その同じ場所を刺してやろう。  絶対に殺してやるのだ。 二十年以上経った今でも、あの殺気はまざまざと全身に蘇る。殺人は時としてこんな生々しい決意と憎悪から起こることを、碧斗は知っている。  立ちあがろうとしてもそりと男が動いた。途端、落雷のような戦慄が碧斗の身体《からだ》を射抜く。  それからのすべては、数秒のうちに起こり、終わった。  胸の前で包丁を突き立てた碧斗は、甲高い奇声と共に男に駆け寄った。自分からこんなに思いきった声が出たことが信じられなかった。…そう。自分はちょっとばかり鼻っ柱は強いけれど、普段はけして勇気りんりんの子供じゃない。どちらかといえば、人の陰で逃げをとるほうが多いから――――。  勢いをつけ、全体重をかけて、男の背中をずどんと刺す。そして、それを一気に引き抜けば……。  血しぶきが炸裂して碧斗を汚し、驚いて身を退けた。  男は苦しげな呻きを漏らし、ぐらぐらと揺れた体躯はまもなく巨木のように祖母の上へと倒れる。  しばらくの間、断末魔にぴくぴくと痙攣していた男の身体を碧斗はじっと見つめた。心臓が胸骨を痛いほどに叩きつけ、今にも喉から飛びでてきそうだった。  やがて男の全身がおとなしくなる。おそるおそるその顔を覗き込めば、白目をむき、口からは血とあぶくが溢れていた。包丁を抜いた背中の刺し孔からは、碧斗がよく遊ぶ公園の噴水のような勢いで、血が。 (ああ) (ああ、そうとも)  碧斗はしみじみと考える。  この男はけしてぼくを公園になど連れて行ってくれなかった。お母さんとおじいちゃんは、いつも仕事で忙しかったから、外遊びは、いつもおばあちゃんが。  この男は一日中酒を呷っては暴れ、怒声をあげたかと思えばぼく達を殴って。まったく、許しがたい男だった。これ以上生きていてはならぬ男だった。  密かな山奥の出水のように男の刺し傷からはこんこんと血が流れ続ける。それが家畜の糞尿よりも汚らしいものに思われて、そんなものにしとどに濡らされている祖母が可哀想だった。だから男を祖母から引きはがしたかったのだが、ともかく匂いがきつい。鉄の刺激臭と魚のような生臭い匂いが、いやというほど鼻腔を侵蝕してきた。その事実に気づいた途端、食べたばかりのハンバーガーを胃酸が出尽くすほどに吐き出す。 (せっかく、おばあちゃんがご馳走してくれたのに)  碧斗はハンバーガーが大好物だった。だから祖母に手を引かれ、近所の大型ショッピングセンターまで行って食べさせてもらったのだ。 『お母さんとお父さんは、これから大事な話をするから。だから今日は、おばあちゃんがお昼にハンバーガーおごってやるから、一緒にでかけような? …おじいちゃん? おじいちゃんは、目医者さんだ。店が休みの日は、たいがいそうだろ? だから碧斗はおばあちゃんと二人でお昼を食べよう。な?』… (その結果が、これか)  したたかに吐くうちに涙も零れる。心臓が握り潰されたように苦しかった。  母と祖母を殺された絶望がじわりじわりと胸に広がる。心は、すでにぼろぼろに皹入ったガラスのように崩れかけていた。  それでも、吐き戻してしまえば胃のほうは少しだけマシになる。碧斗は累々と横たわる死者達とその血溜まりを避けるようにして玄関を抜けた。  通りに出て、ふと立ち止まる。  家の中とは別世界。信じられないほど長閑な春の日差しが目に眩しい。  清々しい風は家の中で起きたことなどまるで知らぬように、涙に濡れた碧斗の頬を無邪気に乾かして吹き去ってゆく。  ――――外が、こんなに穏やかだったなんて。  まるで地獄から抜け出てきた気分。  穢れのない真っ青な空の下で碧斗は茫然とする。その静謐さに眩暈すら覚えた。  うららかな午後。  幸福に咲く、可憐な花々の香り。  全身に父の返り血を浴び、血に濡れた包丁を握りしめながら。  すっかり蒼褪めた少年を、通りすがりのおばさんが悲鳴をあげて気づくまで。  優しい風を肌に感じ、穏やかな日差しを全身に浴びながら。  碧斗はただなす術なく無機質に、凍えた心でもう何も考えずにぼんやりと立ち尽くしていた。

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