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   ◇◇◇   ジンベースで作るマティーニをウォッカで代用してシェイクするボンド・マティーニは、一九六二年の映画『007』でジェームズ・ボンドが注文して作らせたのが始まりだという。通常メニューにあるのが珍しく、試しに注文してみた。  ショットバーだからさして期待はしていなかったが、本格的にロックグラスで提供され、かなりの度数でしかも旨い。グラスが冷たいうちに最後の一口までを飲み干した。  ショットバーはカウンター席が二十、テーブル席も同程度。  ガラスに接して設えられているテーブルに向かって久遠(くおん)はひとり腰掛け、眼下に開けたホールを見おろしながら自分用のボーイが来るのを待っていた。  マティーニを空にしてまもなく、横に人が立った。 『久遠さんですか』  テーブルに手のひらサイズの手帳が置かれ、メモを寄せられた。香水でもふりかけているのか、シトラス系の清々しい芳香がぷんと燻る。  久遠は座ったまま相手を見あげた。受付で選んだ色白の青年が写真から抜け出たようないでたちで立っている。両耳の小さなボールピアスが店内の明かりを受けて金色に光った。  写真の顔があまりに綺麗だったので少しくらい加工してあるのだろうと思ったが、目の前にいるのはそっくりそのままの美貌の持ち主だ。瞼のあたりで前髪を切り揃えた黒いショートヘアはすっきりとまとめられており、張りのあるスーツと共に清涼感を漂わせている。ネットで下調べした際にハイファンのボーイたちは美形揃いだと目にしたが、その通りなのだろう。 「ああ」  久遠は頷いた。 『オレ、碧斗です。よろしく』  青年はさらさらとメモをしたためる。 「よろしく」  碧斗の双眸が久遠のグラスにとどまる。今しがたマティーニを空にしたところだった。 『おかわりはいかがですか』  酒ばかりそんなに欲しいとは思わなかったが、そう問われるということは二杯目を頼むべきなのだろう。このような場は初めてなので加減が分からないが、おおかた客の注文した酒代の一部は男娼の実入りになる。そうと察した久遠は快く請け合った。 「俺はなんでもいけるから、きみも好きなのを選んで」 『ありがとうございます。ではシェリーとか』  青年はなんとなく緊張している顔で、感情に乏しいまなざしをよこす。一方で美麗な曲線を描く大きな鈴張り目は烏の濡れ羽色をしていて、青みがかってしんと沈んでいる白い部分とあいまって物憂げに見えた。 「うん。頼む」  碧斗が足早にカウンターへと立ち去る。ロシアンブルーの成猫を思い起こさせる、なめらかな動きと足取りだった。  商売柄、人間観察は久遠の趣味でもある。向こうでもメモを使ってバーテンダーに注文している碧斗の立ち姿を眺めた。  細身のカジュアルスーツはグレーのストライプが黒地に淡く効いたもので、他のボーイたちも同じだからここの制服だろう。碧斗のスレンダーな体格によく似合っている。襟元のボタンを外して、光沢のある黒いネクタイを緩めて遊ばせているあたりは、洒落たセンスを伺わせた。  碧斗は横から見ると西洋人のように前後に奥行きのある頭形をしている。顎から首にかけてのラインが美しく、鼻梁の通った横顔は単純に鑑賞に値した。すらりと姿勢がよく背も低くなくて、長身の久遠と並んでも頭半分ほどしか違わないだろう。それでも彼は受け身専門のボーイだと受付で聞かされた。失声症なのもその時に教わった。 「この子は不感症だから安いのよ。その代わり、どんなリクエストにでも答えてくれるの。いい歳だからもう必死なのよね」  真っ赤な唇をせわしなく動かし、髪をポンパドールにして女性用の赤いスーツを身に着けた受付の男は、碧斗の安い理由をざっくばらんにそう語った。ずいぶんあけすけな店だと思った。  いざ実際の碧斗に会ってみると、さらに湧きあがる興味を久遠は抑えきれなくなる。これだけ見目が良く、しかも不感症であるにもかかわらず、どんな理由で彼は身を売っているのか。遊ぶ金欲しさか、借金でもあるのか。  男娼をする理由などさまざまだろうが、今どきは男が好きだからというのも立派な理由かもしれない。いずれにしろそれなりの動機があるに違いない。  初めての風俗店で彼を選んだ理由は、単に写真の顔が好みだったからというだけではなく、ある種の好奇心が働いたせいもあった失声症で不感症という複重苦を抱えながらも、なぜか男娼をしている、そんな青年に会ってみたいというまことに不謹慎な好奇心だ。  話せないのは不便だろうが、ああしてメモを使って切り抜けているらしい。彼が手話を使えるのかは知らないが、手話は一般的に使えない相手のほうが多いから、やはり意思の疎通にメモは必須だろう。  戻ってきた碧斗から再び香水が香った。弱すぎず、強すぎず。さすがにこんな商売をしているだけあって香水の使い方には慣れているようだ。久遠はこの香水の匂いと使い方が気に入った。  碧斗が持ってきたロックグラスは二つとも同じもので、こぼさないよう気遣いがちにテーブルに置く。砕いた氷とライムが添えられ、炭酸の泡が勢いよく上昇したそれはいかにも旨そうだった。 「レブヒートか」 『はい。よかったですか』 「うん。炭酸のカクテルは好きだ。ありがとう」  ほっとしたように頷く。感情の乏しい顔とばかり思っていたが、ふと安心したように和らいだ表情は、思いがけず少年のようにあどけない。もっとも細身で美しい肌をしている碧斗は、写真にしろ、実物にしろ、二十歳と言われてもおかしくない若々しい見た目をしている。  グラスを寄せて乾杯した。レブヒートは適度な甘味があり、程好い苦みとキレがあいまって旨い。かえすがえす風俗店のショットバーにしては上出来だ。 「いける」 『よかった』  碧斗は素早くしたため、続けて自らも小気味良く喉を上下させながら口に流し込む。

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