10 / 39

【3】 p10

『トド野郎が ふざけんな』  ぺらりと紙をはがして鼻先に突きつけてやると、男が顔を真っ赤にした。古本屋に来てこんな罵言を見せつけられるとは思っていなかったのだろう。 「くっそ。こいつ許せねえ…!」   歯の隙間から絞り出すような声を発して、男は碧斗の胸ぐらを掴む。  シャツを手で引っぱられ、夢中で外そうとしたが、男の力のほうが上だった。もう片方の手が振りあがり、こぶしを作る。したたかに殴られるのを碧斗は覚悟した。  店主として我慢を効かせられなかった自分も悪い。だが幸雄を侮辱されたのはどうしても許せなかった。  祖父のためであるならばいくらでも殴られてやる、そう覚悟して目を閉じた。その刹那、男の背後から違う男の声が響いた。 「いい加減にしろ」  電流が走ったみたいに空気が振動する。見回りの警官かとも思ったが違う。いつの間にか他に入店客がいたのだ。 「そのくらいにしておけ」  低くて怒りのこもった声に驚いた。咄嗟に目を見開く。  別の誰かがいたという事実に驚いたのではない。その声に懐かしいほどの聞き覚えがあって、急いで碧斗は視線を走らせてその相手を確認した。 (…やっぱり――――)  巨体の男の手首を背後から掴んで動きを制していた相手は、久遠だった。 ハイファンで一度だけ碧斗を抱いた客。一樹の恋人の友人でもある男だ。  一瞬、見間違いかと思った。もしくは他人の空似か、幻か。  だってこんな偶然があるわけない。それとも最近の疲労困憊の蓄積で、脳の神経が誤作動を起こしているのか。  意外な人物の登場に、ただただ碧斗の思考は混乱した。 「ンだぁ、あんたは!」  振り返りざま、男が露悪的に唸る。 「いい加減にしろと言っているんだ。きみがしてるのは立派な営業妨害だぞ」  憤りの響きを含みつつも、その声には深い落ち着きがあって、端正な相貌とあいまって碧斗の記憶にある久遠のそれと一致する。 「横からクチバシ挟むな! 関係ねぇだろ、おたくには!」 「喧嘩になりそうなのを放っておくわけにはいかないだろう」 「バカか。フっかけてきたのはコイツだ、説教たれる前に確かめろや、おら!」 「きみが先に彼を侮辱したからだ」  いつから話を聞いていたのか、男の威嚇に久遠がきつく言い返す。男はさらに憤激したようだった。 「本当のことを言ったまでだ! あのクソジジイはとんでもねえ頑固おやじだったんだよ! 店を潰すところだったんだぜ!」  決めつけたような言い種にまたカチンときた碧斗は、男を再度睨みあげた。 「そういう言葉を言われて相手がどう感じるのか、よく考えろ」 「その言葉、そっくりこいつにも言えっ」  『トド野郎』がよほど腹に据えかねたのか、男も怒りが冷めやらぬようだ。 久遠はこのならず者に負けず劣らずの長身で、筋力も勝っているのだろう。男は手首を握る久遠の手を必死に振り払おうとしているが、ままならないらしい。そのぶくぶくとした手は不自由そうに震えるだけだった。 「放せ!」 「きみが彼を放したらな」 「くっそ、何もんだ、あんた」  久遠の腕力に怖気づいたのか、男の顔がにわかに狼狽する。 「分かったから、放せ!」  怒鳴り声と共に碧斗の襟首が解放され、久遠も男の手首を放した。 「この野郎! ナメた真似しくさって」  矛先を久遠に変え、男が久遠と対峙する。ほどけかけた緊張が再び走った。 次は久遠とやりあう気なのかと心配したが、それは杞憂に終わった。男は持ってきた本をいそいそと袋に詰め込み始める。 「誰がこんな店に売ってやるか! 今日のことは、言いふらしてやるからな。潰れちまえ、こんな店!」  声を張りあげ、乱暴な足音をさせて店を出ていく。その呆気ない幕引きを碧斗は信じられない思いで見送った。 (助かったんだ…)  張りつめていた緊張が緩み、急に膝から力が抜けて椅子に尻もちをついた。 「大丈夫?」  かすかな笑いが耳に届く。見あげると、あんなチンピラを相手にした直後にしてはずいぶんと余裕のある顔を久遠はしていた。 『はい。助かりました。ありがとう』  筆記の手も震えがちになる。 「彼、もう来ないかもしれないけど」  出入り口を見つめながら、なぜか申し訳なさそうに呟く。その真面目そうな横顔には律儀な人柄が見え隠れした。 『いいです。あんなやつ、何度来られても困る』 「ああ。まあ、確かにそうだね」  喉を鳴らして笑う。朗らかでやさしい笑顔だった。

ともだちにシェアしよう!