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   ◇◇◇  祖父の幸雄が開いた豊崎古書店は南向きに間口が開かれ、全面ガラス張りなので、昼間は店内の照明が要らないほどだ。逆に本が陽に灼けてしまわないようにブラインドで遮光したり、本棚をガラスから離して設置したりと工夫している。  横浜と渋谷を結ぶ中央に位置するこのあたりは、都心の勤め人のベッドタウンで、近くに有名な私立大学もある。そこの学生や教員、そして近隣住民には数年来の常連客がいて、そんな身近な人々と細々としたネット販売によって古書店は成り立っていた。  軽鉄骨造りの小さな二階建てのうち、一階の南側を店舗にあて、残り北側と二階部分を自宅として使用している。  個人商店にしては店舗面積が広く、それなりに大量の書物を置けるのだが、特に幸雄のころから国内外を問わず純文学と古典文学の蒐集に力を入れていて、「文芸作品に関しては大学の図書館よりも充実していますよ」と、年配の教授から褒められたこともあり、そこは店の強みだと思って碧斗も踏襲していた。  開店時間と同時にシャッターを開け、新鮮な空気を貪ろうと出入り口に立って、両腕をめいっぱい伸ばした。店の前は四車線の広い国道で、午前十一時の歩道に人通りはほとんどない。  濃厚な生命力が大気に漲る春の盛り、うららかな日差しを浴びながらひとつ深呼吸するも、しかしかえって碧斗は不穏な立ち眩みを覚える。  ハイファンでの仕事は考えている以上に健康を蝕んでいるのかもしれない。そこはかとない体調不良を感じながら、碧斗は緩慢な足取りで店の奥に戻った。  店番をしつつパソコンで作業を進める。ネット販売の結果を確認し、数冊売れていたのでポストへ投函するための準備を整えた。たまに珍しい古書がタダ同然で売り出されていることもあるから、手に入れるためにオークションもこまめにチェックしている。  この季節、店のドアはずっと開け放してあり、今も息づいた植物の初々しい芳香が店内に満ち始めている。特に隣りの花屋からの香りがいい。いつもなら快く感じるそれも、今の碧斗には不快なだるさに追い打ちをかけるだけで、頭痛が鋭く差し込んだ碧斗は、反射的に指先で眉間を押さえた。  昨夜も磯崎と寝た。だから寝不足の上に疲労困憊だ。  平日のこの時間はたいして客が来ないから、惰眠でも貪ろうかとカウンターに臥そうとすると、空気が動いた。入り口に気配がして視線をあげれば、恰幅の良い男がのしのしといった風情で奥へと入って来る。黒地に灰色のスカル柄がプリントされたスウェットの上下はよれよれで、風貌といい表情といい、なんとなくチンピラふうだ。カウンターまで来ると紙袋を碧斗の目の前にどさっと置く。  碧斗はらくがき帳に鉛筆を走らせた。子供達がよく使うようなB5サイズのらくがき帳で、店ではいつもこれを使っている。 『いらっしゃいませ 買取希望ですね』  碧斗とそう変わらない年齢か年下であろう大男は、一瞬呆気にとられた顔をした後で不機嫌そうに口を開いた。 「なんだ、しゃべれねえのかコイツ」  独り言のように呟かれ、碧斗は身をすくめた。時間をくう筆記の会話に付き合わせるのは申し訳ないが、体調不良はさておき、査定の間待ってくれるよう頼む。  二十冊ほどの査定を進めていると、男は店の前でタバコをふかし始めた。あそこは喫煙場所ではないし、隣の花屋への迷惑にもなるので注意しようかとも思ったが、男の横柄さに及び腰になって勇気が出ない。ともかく査定作業を急いだ。  査定を終えた碧斗は男の許に行き、一緒にカウンターへ戻ってくれと頼んだ。引き取り金額と数冊は引き取れない旨を伝えると、途端に男の表情が険しくなる。 「それっぽっちにしかならねぇのか。それに、なんでこっちは引き取らねえんだよ」  露骨に不満を言い表す。  雑に扱われてきたことが一目で分かるぼろぼろの漫画本と、裸同然のグラビアアイドルの写真集を、碧斗は束にして横に重ねた。 『これらのコミックは状態が良くないのと、あと、こういう写真集はうちは扱わないので』  男は苛立ったのか、落ち着きなく四肢をゆする。 「ケチくせえな。わざわざ重いのを持ってきてやったんだぞ」  たまにこういうクレームがあるのは経験則だが、こちらも商売なので聞き分けて欲しい。店には特色というものがあって、このような品は碧斗の店の趣旨にそぐわないのだ。 『すみません』  碧斗の謝罪に男が舌打ちする。 「前のジジイよりちっとはマシになったかと思えば、相変わらずサービスの悪ぃ店だな。あのジジイが死んだってんで、来たのによ」  聞き捨てならない台詞に碧斗は思わず目を瞠った。 『どういう意味ですか』 「聞こえた通りだよ。お前、しゃべれなくても耳は聞こえてんだろ。前の店主は頑固でアイソのねえクソジジイだったろうが」  片頬を歪めてせせら笑う。  幸雄を愚弄されて碧斗の頭に血がのぼった。視線を鋭くした碧斗に気づいているのかいないのか、男は悪びれもせずに続ける。 「ジジイ、店潰す前に死んで良かったよなあ。でもあいつと同じことしてたら、今度はお前が店を潰すことになるぞ。しゃべれねえ店員のくせに、偉そうにすんじゃねえよ。なんでもありがたく引き取れ。でなければこんなちっぽけな店、すぐに潰れちまうぞ」 『余計な世話だ ケンカ売ってんのか』  理性がふっ飛び、書き殴った。怒りで手が震えてみみずのような字になる。その文字に男が血相を変えた。 「お? 威勢がいいじゃねえかよ。そりゃこっちのセリフだ。ナメたことぬかすとそっちが痛てぇ目にあうぞ」  確かにこんな巨体の男を相手に取っ組み合いになれば、負けるだろう。しかし幸雄を侮辱されておとなしく引きさがるわけにはいかない。

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