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建物一階の奥まった場所にある控室は、夜が深まるほどに空気が重くなる。客からの指名がないボーイたちが笊 に漉し損ねられたように残されていくからだ。
指名がなければ駄賃はない。それがハイファンのシステムだった。代わりに指名を受ければかなりな実入りになる。一晩で六桁を稼ぐ者もいる。ボーイの誰もがとりすました顔をしているが、内心では今か今かと声が掛かり、金が入るのを待ちわびているのだ。
今夜も碧斗は売れ残った。昔の遊郭でいうところのお茶曳きだ。
夜の十一時も過ぎれば売れ残ったことを自覚せざるを得なくなる。だが売れ残ったボーイ達が諦めて次々と帰ってゆく間も、碧斗はなかなか腰をあげる気になれなかった。これもまたよくあることだった。
誰もいない、暗い家に戻るのが嫌なのだ。独り寝のベッドで思い出すのは、あの二十二年前の悪夢の光景か、祖父の死んだ瞬間。ならばいっそ人のいた気配が残っているこの控室でぼんやりと夜を明かしてしまうほうが、気が楽だった。自宅での碧斗は強度の不眠症にかかっていた。
その反動なのか、それとも数日前に磯崎に抱かれた心身の疲労が尾を引いているのか、テーブルに突っ伏した途端、眠り込んでしまったらしい。目覚めたのは明け方近かった。
さすがにもう誰もおらず、そのうちに買われた者達が戻ってきて逆に気まずい思いをしなくてはならなくなる。碧斗は重い身体を起こしてお仕着せから私服へと着替え、控室を後にした。
おかしな寝相をしていたらしく、首がぎしぎしいう。メトロはまだ始発を迎えていない。空腹を覚えた碧斗は、早朝でもやっている店で腹ごしらえでもしてから帰ろうと思いついた。
従業員がハイファンを出るには地下一階の通用口を使う。その扉の前面には客用の駐車場が広がっており、高級外車やハイクラスの国産車がいくつも並んでいた。
これらの持ち主は今頃、上層階の個室で思う限りの情事を愉しんでいるか、壁に大きくくりぬかれた窓から都会の朝景色でも眺めて、贔屓のボーイを腕にまどろんでいるのだろう。
いい車を使っている客がいい男とは限らない。自分に限らず、酷い客がついてしまうボーイだってたくさんいる。そう分かっていても、今夜、彼らのうちの誰にも選ばれなかった虚しさが胸に込みあがる。オレはいったい、いつまでこんな朝を迎えるつもりなのだろうか。
さして贅沢をしない碧斗は古書店だけの収入で充分に暮らしていける。なのに不毛な夜をこうして重ねるのを辞められない。
ドアを抜けて建物から出ると、四月のさわやかな空気が肌を刺した。白んだ大気は今日が快晴であることを伝えてくる。こういう日は古書が灼けないようにカーテンよりブラインドをおろさねばならないのだ。
そんなことをぼんやりと考えながら足早に通りへ向かおうとした時、ふと、のぼりスロープとは反対側の駐車場から声がした。ごく間近のようだが、奥へと折れている壁によって互いに死角になっているらしい。
「あなたには負けた。本当にしつこいんだもの。まさかこんなに通ってくるとは思わなかったよ」
この声には聞き覚えがある。年末に入った一樹 だ。
「この店で働いてるって、よくもまあ探り当てたよね」
まだ二十歳 そこそこで、小柄でショートヘアな、美少女っぽい風貌をしている、現在、人気急上昇中のホストだ。
このような場面に遭遇するのはさして珍しくない。
一晩の情事の後、ホストが客を見送るためにこうしてここまでおりてきて、後朝の会話をするのだ。ついでに次回の予約を入れてもらえばしめたものだった。
「しかも結局、一度も僕を抱かないでさ」
にわかに碧斗は興味を引かれた。一度も抱かなかったとは、穏やかでない。
しかしこれでは盗み聞きになってしまうと思い、碧斗は踵を返して外へ続くスロープへと一歩を踏み出した。
「当り前だ。大事な友人を裏切るわけがないだろう」
再び足が止まった。一樹に返事をした男の声は低くて、碧斗の最近の記憶を刺激する。
「王寺の許 にすぐ帰れ、一樹」
「翔真が自分でここに来て、謝ってくれたら戻るよ」
挑むような口調で一樹が答える。少しの間があって、男が諭すように言葉を繋げた。
「あいつだって自信がないんだ。きみに自分がふさわしいのか、いつだって悩んでいる。きみを心底、愛しているからだ」
ああ。思い出した。あの男だ。
冬の終わりごろ、ふらりとハイファンに現れて自分を抱いていった男。あの人の声だ。
鼻で笑う一樹の声が続く。
「自信がない? いつだって自信満々じゃない、あの人は」
ほぼ嫌味であろう一樹の科白に、男はさらりと言い返す。
「自信のあるふりをするのも男心だろう。分かってやれ」
親身に説得を試みている真摯な声に、久遠という名が懐かしく碧斗の脳裡に思い出された。
「それって翔真の友人としてかばってるの? それとも一般論?」
「長年の友人としての助言だ。彼の誠実さは、きみより良く知っているつもりだぞ。悪いことは言わないから、つまらないことで別れるな、一樹」
疑いようがない。やはり久遠の声だった。
話の流れから察するに、どうやら久遠は一樹の恋人の友人らしい。それでその男の許に帰れと、一樹を説得しているようだ。
好奇心に勝てず、碧斗は物陰からそっと盗み見た。
車の運転席に座っている男は間違いなく久遠で、開いた窓に肘をかけ、目の前に立っている一樹に向けて話しかけている。一樹は碧斗に背を向けているのでその顔の表情は分からない。
「いつ帰る?」
「…今夜」
さすがに気持ちが動いたのか、神妙な様子で一樹が答える。
「そうだな。そうしてやれ」
表情を和らげた久遠が窓を閉めかけると、一樹が声をあげた。
「その指輪、まだしてるんだね。そろそろ外せば?」
久遠は一瞬きょとんとしたあとで、ふっと口角をあげる。
「そうだな。次に好きな人ができたら」
あっさりとした口調で言って、窓を閉める。
「まったくもう…!」
呆れたような一樹の声が追いかけた。
車にエンジンがかかったので、碧斗は慌てて顔を引っ込めて建物の中に戻り、近くのトイレの個室まで小走りに駆けて身を隠した。盗み聞きをしていたと一樹に知られるのは、さすがに気まずい。
やがて久遠を見送ったらしき一樹の、かんかんという靴音をさせながら階段をのぼる音がする。
そうか、と碧斗は思考を巡らせた。
久遠がこの店を訪れたのはもともと、ああして一樹を説得するのが目的だったのだろう。一樹の勤め始めた店を探しだし、久遠の友人である恋人の許へ帰るよう、一樹を説得するためだったのだ。だからこそ、何度訪れても一樹を「一度も抱かなかった」のに違いない。
確かに、久遠が碧斗を買った夜、一樹は休みだった。
ならばあの夜、自分は一樹の代わりに買われたのだ。おおかた一樹の働いている店の様子を偵察したかったのに違いない。久遠もあの夜、社会勉強のためとかなんとか言っていた。
久遠の指輪にもなんらかの秘密がありそうだった。
一樹は「もう外せ」と勧め、久遠は「好きな人ができたら」と答えていた。ならばあの指輪はよくあるパートナーシップの意味というよりはむしろ、久遠なりの誰かへの誓いとか、思慕の象徴なのではないか。
と、そこまで考えて、ともかく自分にはかかわりのない話だと碧斗は結論づける。いずれにしろあの夜以来、碧斗に久遠からの指名はないのだから。
(気に入られなかったんだな)
当然だった。あの男は一樹に用があった上、下手なフェラチオを晒し、感じること一つできないで自らをマゾだなどと紹介する男娼を、二度と相手にしたいとは思わなかったのだろう。
なんともいえないやるせなさに碧斗の口から溜め息が抜ける。なぜやるせないのかは、よく分からなかった。
(不毛だな…)
男娼を続ける限りそんな夜明けが続く。その現実だけは疑いようがない。
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