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「今日も豊崎さんとこに寄ってきたんだ?」 「え――あ、教授。コーヒーは自分で淹れます、おかまいなく」  蓮沼が二人分のコーヒーを淹れているのに気づいて、慌てて久遠は引きとめた。 「いや、遠慮はいらないよ、ついでだから」  軽く笑って、気にするなと蓮沼は手を振る。  国文学研究で名を馳せ、六十を超えてなお現役の蓮沼は、国内で首位を競う国立大学で名誉教授の座に就きつつ、この一流私立大学でも教鞭をとっている。ウォルナットの立派な執務机にどっかりと腰を落ち着けるさまは、小柄ながらも貫禄十分だ。  そんな名誉職にあって、自分のコーヒーを淹れる際に嘱託講師のカップの残り具合まで確認する。その細やかな心遣いはしっかり見習わねばならないと久遠は自省した。  蓮沼は久遠の恩師でもある。ここの嘱託講師の職も、蓮沼から直々に持ちかけられたから承諾したようなものだった。  大学時代、蓮沼のゼミに在籍していた時に久遠は純文学で大型新人賞を受賞し、文壇デビューを果たした。ただし今の自分は十数年前の、それこそ寸暇も惜しんで純文学に傾倒していた頃とはだいぶ異なり、創作への混じりけのない憧憬も希薄になりつつある。  ミステリーに手を付けたのも食うに困ってというわけではなく、ただ流行りにのまれて気づけばこうなっていただけのことで、我ながらずいぶん世間擦れしてしまったと自覚せざるを得ない。  そんな教え子の久遠に日当たりの悪い粗末な講師室を使わせるのは忍びないと言って、蓮沼は週に一度の講義に訪れる久遠を、自身の教授室にあるソファでくつろがせてくれる。  そのような蓮沼からの身に余る配慮はありがたい一方で、すでに商業作家の手垢にまみれている久遠はどこか後ろめたくもあり、もったいないほどの厚意に恐縮してしまう。一度そう口にしたこともあるが、蓮沼には軽く笑って聞き流されてしまった。  そういうわけで久遠は今もまさに蓮沼の教授室のソファに身を沈めて、豊崎古書店で買ったばかりの珍しい洋書を手にしていた。まさか彼がこの近くで古書店を営んでいるとは思いもよらず、ずいぶんと運命的な再会を果したものだと思う。  先程も大学に来る前に寄ってみた。  また来たのかと息を飲んででもいるような、なんで来たのだとでも言いたげな、いやに驚いた顔をされた。どんな了見であんな顔をするのか。しかもそんなふうに驚いた後で、碧斗はひきつったように口角をあげて、丁寧にお辞儀をするのだ。  男娼館でベッドを共にした相手だから、再会して気まずいのはお互い様だった。かといって、ではもうあの夜のことは水に流さないかというのも抱いた側としてはずいぶん虫のいい話にも感じられるし、結局、その話題には触れられないでいる。  碧斗の古書店での接客は、男娼の時と同じで筆記を用いている。今日も久遠が物色していると年配の女性がやってきて、碧斗は彼女としきりにメモで対話していた。  常連なのか、かなり親しげだったが、ふと相手の女性が、 「昔読んだ本で読み返したいのだけれど、作者も題名も分からないの。ここに置いてない?」  と、相談を持ちかけた。  碧斗はストーリーを子細に聞き出し、残念ながらこの店にはないことを伝え、代わりにパソコンでネット注文をしてやっていた。女性はしきりに礼を述べていたが、驚くべきは自分の店にあるあの膨大な書籍の一つ一つの中身を、碧斗は把握しているのだ。  豊崎古書店に行くのは当然、そこに並べられている本が貴重で良質だからだが、もしかしたらそんな碧斗の男娼とは別の顔を見たいからかもしれない。  ところで豊崎古書店に寄ってきたことをなぜ蓮沼に覚られたのかと怪訝に思ったが、ローテーブルの上に蓮沼が視線をよこしているのに気づいて納得した。 「ああ。珍しい柄ですよね」  久遠は水を向けた。  豊崎古書店のシンボルのようなものだが、いったいどこで手に入れているのか、緑地にオウムが色彩豊かに散りばめられている、なかなかおどけた絵のついたビニール袋なのだ。厚めでしっかりした作りで、本を何冊詰め込んでも破れない。店主のそれとないこだわりが感じられ、どこかほほえましい。 「鳥が好きなんでしょうか、彼は」 「インコを一羽飼っているもの」  蓮沼がしたり顔でコーヒーを啜る。久遠は胡乱に目を眇めた。 「お詳しいんですね」 「うん。鳥仲間ってやつだよ。先週もね、春は発情期でエサを撒き散らして困るよねって、こぼしあったばかりなんだ。…あれ? きみに言わなかったっけ、僕が長年オカメ飼ってるの」 「初耳です」 「もう三代目だよ。きみに言わなかったなんて、僕としたことがうっかりだなぁ」  それこそオウムみたいに目をきょろりとさせて笑う。何十年間も学生の中で暮らしている蓮沼は六十を過ぎても気が若い。すぐにこのようなくだけた口調になる。 「耳をすますとさ、裏の自宅からインコの声が聞こえてくるよ。『碧斗、おかえり』ってね。あれはおじいさんの声なんだなあ…。どんな気持ちで聞いているんだろう、碧斗君は」  豊崎古書店とはずいぶん懇意なのか、蓮沼は親しげな科白を口にする。一方で最近通い始めたばかりの久遠は、あの店はいつもドアを開け放しているために沿道の音がうるさく、インコの声までは気づかなかった。確かに今はドアを開放するのにちょうど適した季節だ。 「よく通われているんですか」 「常連だよ。だってあの店、品揃えが半端ないでしょう。そこらの図書館には置いていない絶版ものもたくさん持ってる。まったく驚くよねぇ…。本屋よりも図書館になって欲しいくらいじゃないか? 学生に読ませたい本がたくさんある」  まったく同意見なので久遠は肯《がえん )じた。  古書店の名にふさわしい、チェーン店の古本屋とは一線を画す独特な品揃えだ。今どき珍しい貴重な店だと思う。 「碧斗君は三年前に亡くなったおじいさんの跡目を継いでね、若くて障害もあるのに、よくやっているよ。僕が最初に会ったのは彼がまだ小学生の時だったけれど、やっぱり目の醒めるような美少年だったね。今ではうちの女子に大人気でさ」  久遠は頷いた。確かに人気はあるだろう。単純に美形と呼ぶに値するルックスだし、背も日本男子の平均よりは高い。  もっとも古書店員としての碧斗はいたって地味で、服装は垢抜けていた男娼の時と違い、淡色のシャツとチノパンばかりだ。ほのかな哀愁を全身に漂わせ、いかにも真面目そうな表情にはあどけなさもある。客から話しかけられれば丁寧に対応するが、たいがいは黙々とパソコンに向かって店番をしていて、彼が裏で男娼をしているなど誰も想像すまい。  自分はそんな碧斗の男娼の時の顔を知っている。碧斗が警戒するのも無理はない。彼にじっと見つめられる時があるのは、そのためだろうか。  ならば一度きちんと伝えるべきだろう。心配はいらない、自分はあの時のことを誰に打ち明けるつもりもないのだと、彼を安心させなければ。  どことなく生きるのに不器用そうな碧斗に、つまらない気苦労をさせるのは気の毒に思えた。そんなふうに気の毒に思えるのは、話せないという不便さへの同情もあるだろうが、男娼のくせに物慣れないセックスしかできないことを知ってしまったせいもある。 「おじいさんの跡目というと、では、父親は別の仕事を?」  余計な質問だと自覚しながらも、碧斗の家庭環境が気になって訊ねた。 「いや、彼はおじいさんと二人暮らしだったんだよ。僕、おじいさんともたくさん話したけれどね。しかし家族についてはあまり話したがらなかったな、どういうわけか知らないけど。他に家族はいないって言っていたよ」  その祖父まで亡くしたならば、今の碧斗はずいぶんと孤独な身の上だ。 「あの店主は、おじいさんに育てられたんですか」 「なんだかハイジみたいだよね。おじいさんはさ、もともと神田で古書店を開いていたそうだよ。昭和の頃のあのあたりは、賑やかな古書店街だったでしょう。その頃から続けていた店だったそうだけど、地上げにあってこっちに越してきて、新しく店を開いたらしい。もう二十年は経っているんじゃないかな。おじいさんが亡くなるまで碧斗君はおじいさんと二人で、それこそ寄り添うように暮らしていたんだ」  まったく悪気なく始めた話だったが、本人のいないところで話題にするには、ずいぶんと重く暗い内容だった。 「失声症も子供の時からですか」 「うん。そうだったよ」  筆記では普通に意思疎通ができるので、喉や舌の病気が考えられる。どんな病気なのか。治る可能性はあるのか。  それとも、なんらかのトラウマによる後遺症か。だとしたら何が碧斗の身に起こったのだろう。何が、彼の心に傷をつけたのか…。 (それこそ余計なおせっかいだな)  下世話なほど他人の事情に入り込もうとしている己に歯止めをかけた。そこまで親しい仲ではない。たった一度、男娼館の客として彼を抱いただけで、あとは古書店の客の一人に過ぎないのだ。  蓮沼ももうこれ以上は話す気がないようで、学生から集めたレポートを開いて目を通し始める。  久遠は豊崎古書店で買った洋書を閉じた。裏表紙に貼られたシールを指先でふと撫でてみる。そこには美しい字で値段の数字が書かれていた。  碧斗がした手仕事に触れることで彼の何かが感じられるかと思ったが、その数字が掴めないのと同じに、碧斗の何ものも手にすることはできなかった。

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