13 / 39

【4】p13

   ◇◇◇  明日は午後の一時前後ならばゼミ室にいるとの蓮沼教授からのメールに、「それではその頃にお届けにあがります」と碧斗は返信を打った。蓮沼は幸雄の時からの贔屓客だ。  翌日、指定の時間に車で大学に乗り付けた碧斗は、頼まれた古書の二十冊ほどを手引きの台車に積んでスロープを渡り、文科棟に入った。これまでも蓮沼に頼まれて何度かおこなっている作業なので勝手はよく知っている。  ゼミ室のある五階まではエレベーターを使う。この文科棟はまだ建てられて数年しか経っておらず、新築ビルの清冽な匂いが今もしている。  教授室のドアを叩くと「どうぞ」の招き声があって、碧斗はドアを開けた。本来ならば名前を告げて「失礼します」くらいの挨拶をせねばならないところを、できないので開けると同時にぺこりと頭をさげた。視線をあげると、正面の執務机のそばで窓からの逆光を背に蓮沼が立っていた。 「お世話様です、碧斗君」  人の良さそうな蓮沼の声に、碧斗はやんわりと口角をあげた。すぐに他の人の気配を察し、視線を走らせた碧斗はぎょっとする。 「こんにちは」  ローデスクを使って何かをしたためていたらしき久遠が顔をあげてこちらを見ていた。 (どうして、久遠さんが、ここに……?)  さすがに学生ではないだろう。だとしたら教員か?  今までこの部屋で会ったことはない。ならば最近、この大学の教員を始めたのか。  もしそうであるならば、久遠が古書店に通い始めてくれている理由も説明がつく。久遠は、ここでの仕事のついでに古書店に寄ってくれているのではないだろうか。  台車を本棚の前まで押し進めてから、《どちらにお入れしましょうか》と、手話で蓮沼に訊ねた。碧斗の手の動きを見て、蓮沼は申し訳なさそうに眉尻をさげる。 「ごめんよ、今日はまだ場所を作っていないんだ。本棚に入れる作業は学生にやらせるから、そこにでも置いててくれる?」  ローテーブルの空いている場所を指さす。半分は久遠が使っているテーブルだった。 《分かりました》  台車からテーブルに本を移す際に久遠と目があった。頭をさげると、それこそ挨拶代わりなのか久遠が柔らかくほほえむ。 「代わりに碧斗君、これを引き取ってくれるかい?」  蓮沼の声掛けに振り向くと、執務机の上に五冊の大きく重厚な書籍が重なっている。  碧斗は一冊一冊を手に取り、スマホの検索を使いつつ、内容を確認した。どれも今では絶版となっている写真集で、ヨーロッパからロシアにかけての城や教会を集めたもの、アメリカ大陸の大自然、中国の敦厚や万里の長城、シルクロードをテーマにしたものだった。  蓮沼は純文系の古書を集めるのに余念がなく、もちろん碧斗以外の店からも仕入れている。  他方で他店で珍しい図書を見つけると、あえて碧斗の店のために手に入れてくれているふしがあった。たいがいはありがたく引き取ることになり、実際、この写真集もいかにも好みそうな贔屓客が数人、碧斗の頭に浮かぶ。 《ありがとうございます》  善意に感謝し、碧斗はざっと計算して見積額を提示した。 「ああ。それでいいよ。いつもみたいに今回の分と差し引きで請求書を出しておいてくれる?」 《はい》  帰る間際、久遠の前を通る時に碧斗は頭をさげて挨拶しようとしたが、久遠はもうソファにいなかった。碧斗が背中を向けて査定に夢中になっている間に、室を出ていってしまったのだろう。講義の時間だったのかもしれない。  胸に一陣の冷たい風が吹いたような、虚しい感じがした。  どうしてそんなものを感じたのかも分からない。久遠が気になった理由が分からなかった。そんな自分がとてももどかしく、慣れない感覚に碧斗はうろたえる。 (いっときの気の迷いだ)  胸の底に不穏なさざ波が興る。  落ち着きをなくしかけている自分に碧斗は必死に言い聞かせた。

ともだちにシェアしよう!