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 マネージャーから声がかかったのは八時半という早い時間だった。誰よりも先に碧斗の名前が呼ばれた珍しさに、控室の視線が一斉に自分に向けられて、碧斗は首を竦ませる。 「この男、さんざ一樹を指名していたのにな。お前に鞍替えする気かな。だとしたら相当な物好きだな」  からかいと共に紙きれを渡され、その氏名欄を見て仰天した。久遠隆英とある。 (これ――久遠さん…?)  何かの冗談かと思う。本当にからかわれたのかとマネージャーの顔を伺った。しかし彼はもう他のメンバーを呼びつけて話し始めていて、碧斗などすでに眼中にないようだ。どうやら本当らしい。  心許ない気持ちでバーにおりた。碧斗に気づくと、久遠は屈託ない笑顔で片手をあげてくる。紛うことなき実物の登場に、にわかに眩暈を興しそうになった。  一樹はもうこの店にいない。なのにわざわざ訪れ、ましてや古書店で毎週のように会っている自分を指名するとは、何を考えているのか。  久遠は男娼としての自分を気に入らなかったはずだ。古書店でも最初の夜の話題が出たことはないのだから。 「近くに用事があったんで、寄ってみた」  軽いノリであっさりと告げられ、呆気にとられた碧斗は少しばかり肩透かしを食らった気分になった。一晩ここでボーイを買うのはそこそこの値段が要るし、そんなノリで来る場所ではなかろうに。  久遠は生ビールを飲んでいた。洒落た細身のグラスの中で細やかな泡が香ばしそうに昇っている。 「きみも好きなの選んできて」  この店では客がホストの飲食代も持つ。初めての時も久遠は同じような言葉で気遣ってくれたなと思い出しながら、碧斗は『ありがとう』と手帳にしたため、なんとなく久遠と同じものが欲しくなってビールを頼みにいった。 『この近くの用事って何。聞いてもかまわない?』  久遠の隣に滑るようにして腰かけた。最初の時に敬語はやめろと言われたのでラフな言葉を使った。 「友達と食事をとったんだ。うちの一人はここで働いていた子だよ。一樹というんだ。恋人と一緒に東京に遊びに来たというから、会ってきた」  大概の事情が呑み込めた碧斗は、少しばかり悪戯を思いついた。 『一樹の恋人の名前、オレ、当ててみようか』  久遠が呆気にとられたようにぽかんとする。 「うん。当ててみて」 『おうじしょうまさん』  まさに仰天という顔になる。 「どうして、その名前を知っているんだ…?」  かすれた声も発する。  ここまで驚かせるつもりはなかったので、碧斗は慌ててあの朝のことを打ち明けた。すなわち、明け方に帰宅しようと駐車場へ出たところで、久遠と一樹との会話を聞いてしまったこと。そこで「おうじしょうま」という名前が出ていたことを。  久遠が困惑顔になる。 「そうなのか」 『盗み聞きするつもりはなかったんだけど、二人に話しかける勇気もなくて。結局、そうなっちゃった。ごめん』 「いや…。あの時は、一樹を説得するのに必死で。正直、何を言ったのかよく覚えていないんだけど。何か変なことを口走ったりしていなかったか、俺?」  首を振って否んだ。  指輪についての言及も少し耳に入ったが、それは忘れたふりを決め込む。左手の薬指という、極めて大事な場所にいる久遠の想い人の紹介は、聞きたくない。そんな自己中心で消極的な思考が働いた。 「そうか。ならいいんだ」  心なしかほっとした様子で久遠が告げる。  自分には知られたくない事情があるのだろうと碧斗は察した。むろん、誰にだって他人に触れられたくない秘密の一つや二つはある。だから久遠のそれもあまり気にならなかった。 『一樹は元気?』  それとなく訊ねてみた。 「うん、元気だ。王寺のところに戻って、すっかり落ち着いたものだよ」 『よかった。一樹がここを辞めてからもうすぐ三か月か。早いな。信じられないよ』  その三か月の間に、久遠が豊崎古書店に現れ、週に一度のペースで通ってくれている。 『久遠さんって大学の先生だったんだね。蓮沼先生のところで会った時はびっくりした』 「ああ。彼は恩師でね」 『大学で教えるなんてすごいな』  万感を込めて書いたつもりだったが、久遠はさらりと否定する。 「たいしたことないさ。教授でも准教授でもない、ただの雇われ講師だ」  それでも高卒の障碍者枠で就職し、祖父亡き後は家業の古本屋を継いだ碧斗にとっては、学識に満ちた広い世界に生きている久遠はすごい人物に思われた。  生ビールを飲み干し、おかわりをするかと久遠に訊ねた。 「ついでに下で遊ばないか」  軽い調子で誘われる。バーの半階下にはビリヤード台とダーツ場があり、ガラスを通して見渡せる。今は早い時間のためか、ビリヤード台の半数近くが空いていて、久遠がしたいのならと碧斗は了承した。  二杯目は小ぶりのカクテルグラスで、久遠はギムレット、碧斗は甘口のバーバラ。  久遠は控えめに言ってもいける口だ。出会った夜もカクテル二杯をたやすく胃に納めた後、久遠は酔った様子を少しも見せなかった。  酒癖の悪かった父の記憶が生々しく残っている碧斗は、人格が変わるほど酒を飲む男が大嫌いだ。酒に飲まれる人間を心底軽蔑している。その点、久遠は安心できた。

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