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ビリヤードを十年近くしていなかったという久遠はそれでもかなり巧かった。難しい場所ではテーブルに腰かけてみたり、バックハンドでショットしてみたり、ジャンプショットもできる。相当な腕前だった。
スーツの上衣を脱いで袖を捲ったシャツ姿も見栄えが良く、さまになっている。なめらかでいい色に焼けた逞しい前腕も男らしい。胸がときめくとは、こういう感情だろう。
『まるでプロみたいだ』
視線がどうしようもなく久遠の肉体へと奪われてしまうのに戸惑いながら、碧斗は伝えた。
「大学時代にかなり遊んだんだ。恥ずかしい話、だいぶ勉強がおろそかになった」
本気で反省しているのか気まずそうに言う。なるほど、だからこんなに巧いのだろう。
「碧斗も上手じゃないか」
『お客さんに時々教わっているから』
身も蓋もない返事をしてしまったことを、言ってすぐに後悔した。久遠は腕を前で組んで、何やら考え込む様子で、「う~ん」と首をひねってみせる。
「俺も何かきみに教えられるものがあるといいんだけど」
などと、嬉しいことを言ってくれる。
『バックハンドを教えて欲しい』
ここぞとばかりに頼んだ。バックハンドはビリヤードのキューを背中越しに構えて撞くテクニックで、これまでも何度か挑戦しているが碧斗はなかなか上達できないでいた。
「ああ。いいよ」
久遠は気前よく承諾してくれる。
ではまず現状を確認してもらおうと、碧斗は手玉とカラーボールをテーブルに置いてバックハンドで撞いて見せた。キューの先で撞かれた手玉は力なくころころと転がり、目当ての玉をかすりもせずに静かに止まる。情けないほどの弱々しいショットだった。
「少しフォームを変えたほうがいいな。キューの先は左手のブリッジからあまり出しすぎないんだ」
改善してみてから、「こう?」という視線を送った。久遠が頷く。
「それから、もう少しキューをテーブルと平行にして」
並行か。
やってみるが、しようとすると左手のブリッジがおろそかになってしまってうまく構えることができない。
「キューのグリップをもうちょっと下にするんだ」
混乱する頭で試行錯誤してみるものの、肘が突っ張るような体勢になって格好が悪くなった。
「少し違うな。こうだ」
見るに見かねたように久遠が碧斗の手に手を重ねてくる。
背中はもう少し丸みを帯びなくてはならなかった。そしてキューはテーブルに寄せて低く構ええ、キューの先は左手の構えからあまり出さない。撞きの動きはできるだけ小さく、と、手本で幾度か碧斗の手を動かしてくれる。
久遠の胸元が碧斗の鼻先をこすった。
ビリヤードのテーブルに腰かけて、キューを背中越しに構えている碧斗と、手ずから教えてくれる久遠の身体はほとんど重なっていた。それが急に意識されて、碧斗の心臓がぐらぐらと揺れる。
熱が頬に溜まって苦しい。
碧斗はたまらなくなってそっぽを向いた。自分の右手に添えられている久遠の薬指にはまだ指輪があるのに、どうしてこんなに意識してしまうのか。
「どっちを向いてる?」
怪訝そうな声が頭上から降ってくる。撞く方とは逆側に顔を向けてしまったのだ。碧斗は慌てて向き直った。
「そう。鼻先の向きをキューと同じにするんだ。そして、集中して打つ」
かつん、と、久遠の動作によって碧斗が撞いた球が、勢いよく目的のカラーボールに当たる。
「うん。こんな感じだ」
久遠が離れる。碧斗はこくりと頷き、何度か練習を繰り返してみた。久遠ほどとはいかないまでも、ゲームで使えるほどには上達できたように思う。
「ダーツも空いているけど、やってみる?」
一段落して碧斗がキューを壁に戻すと、久遠が誘う。碧斗は迷うことなく頷いた。
ダーツは二人ともがやり慣れていなかった。
碧斗はボードから外すし、久遠は「今度こそ真ん中に当てる」と宣言しながら端っこに当てたりする。悔しさを顔に表す久遠に、声のない笑いを弾けさせる碧斗を、久遠はまるでその声が聞こえているみたいに一緒になって笑った。
こんなに楽しい時間を過ごすのは久しぶりだ。
不思議だった。
久遠といると、それだけで寄る辺のない寂しさがあたたかくくるまれ、病みついた精神に宿っている憂いが健やかに解消されていく気がする。
目尻に小さく涙が浮かんだ。
久遠は碧斗が笑いすぎて涙が出ていると思っただろう。でも碧斗は嬉しくて泣いていた。
結局、ダーツもビリヤードと同じくらいの時間を費やし、最後は二人とも顔が汗ばむほど熱中していた。
「暑いな。そろそろシャワーを浴びに行こう」
ゲームの名残で楽しそうに笑顔を刻みながら久遠が誘う。碧斗も頬を緩めて首肯した。
上層階に行くのは本来ならばセックスをするためなのに、今はスポーツの汗を流すために向かう。個室に入ってもいやらしい気分はまったくしなかった。
お先にどうぞと言われたが、さすがに客よりホストが先にシャワーを使うのは遠慮して、久遠に先に使わせた。その後で碧斗がシャワーを終えて出ると、久遠はカーテンを引いた窓の前のソファで、すっかりくつろいでいる。今の二人は裸体だった前と異なって、しっかりガウンを着込んでいた。
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