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 テーブルの上にはナッツの小袋が開けられていて、久遠の手には五百ミリリットルのミネラルウォーターのペットボトルがある。この室に備えてあったものだろう。 「腹が減ったからつまんでた。なかなか旨いぞ。碧斗も食べるだろ?」  碧斗は首を振った。久遠と過ごした時間が楽しくて、あまりに気持ちが充実していて、胸がいっぱいなのだ。何も食べられそうにない。  まるで仲の良い友人同士でいるみたいだった。しかし二人の間には円形の大きなベッドがあり、天井には鏡があって、ここはセックスを楽しむための場所であることをあらためて伝えてくる。急に現実に引き戻された気分になった。 碧斗はもそもそと布団に入り、枕に頭を乗せた。久遠がそっと告げる。 「今夜は抱かないから」  だが、そう驚きはしなかった。  だって分かっていたことだ。自分とのセックスを、久遠がそんなに気に入らなかったということは。 「一つ言っておきたかったんだが――――」  久遠が静かに続ける。碧斗はなんだろうと視線を向けた。 「きみのここでの仕事について、俺は誰かに言うつもりはない。その点は約束するから、安心してくれていい。きみが俺とのことを誰かに伝える分には、別に秘密にしてくれとは思わない。好きにするといい」  思わぬ告白に、碧斗は呆気にとられてしまった。ずいぶんと潔いことを口にする男だ。 「今夜は、きみの綺麗な寝顔を見るだけで満足するつもりだ。だからゆっくり休んで」  あたたかくありがたい言葉だが、さりげなく断られたにすぎないのだろう。綺麗な顔云々は、むろん社交辞令だ。 『寝つきが悪いんだ。もしよければ何か話してくれない?』  哀しさが顔に出てしまいそうなのをごまかしたくて、甘えてみた。 「うん。いいぞ」  久遠が気前よく請け負う。話してくれたのは心温まるファンタジーだった。 小さな少年と大きな黒い犬が、村の子供をさらっては不老不死の薬に変えている悪い魔女を倒すための冒険に出る。助け合い、時に命を危険を冒しながらも魔女を倒して、強い絆で結ばれて村へ戻ってくるのだが、少年を助けるために負った怪我のせいで犬は死んでしまう。けれどその犬の愛情は、いつまでもいつまでも心の糧となって少年を支えてゆく。 『いい話だね。誰が作者?』  本好きな碧斗はたいがいの童話を知っているつもりだったが、これは初めて聞く話だった。 「内緒」  やさしいまなざしを碧斗へと注ぎながら久遠はつれない返事をする。意地悪をされたようで碧斗はショックを隠しきれなかった。 「そんな傷ついた顔をしないで。いつか教えるから」  やんわりと付けくわえられて、それならいいやと碧斗は頷いて了承した。それに、作者名を聞かせてもらうまでは、久遠と交流を続けていられる。 「次は、どんな話がいい?」  碧斗はしばらく考えた。 『あなたの小さい頃の話がいい。今の男の子と同じくらいの、小学生だった時の』  書き込んだメモをひっくり返して見せると、久遠がまじまじと見る。 「面白いことを思いつくな」  褒められたのだろうか。褒められたことにして碧斗は上機嫌で頷いた。 「そうだな。俺は、神奈川県に住んでいたんだ。相模湾に面した海岸線のちょうど真ん中くらいの、大磯ってところ。それこそ王寺とよく遊んでいた」  そして中学から都内に出てきたという。それまでの小学校時代の思い出を久遠は静かな口調で語った。  サッカー場や野球場が併設された大型公園での、一日がかりの探検。竹やぶや松林に作ったたくさんの秘密基地。夏の盛りに毎日のように行った雑木林での虫取り。波打ち際で作った砂の城。市境を超えてどこまでも砂浜を走った、小三の冬。  久遠の情景描写は巧みで、一つ一つの景色がまるで見ているように脳裏に思い起こされた。  そしていつしか碧斗は眠っていた。  夢を見た。  明るくまばゆい砂浜で、まだ小学生だった久遠と王寺の背中を必死に追いかけている自分がいる。幼い碧斗は時折、柔らかな砂に足をとられて転びかけた。  碧斗の口から「待って」と叫び声が出た。  二人が振り向き、「早く来い」と促す。あたたかな陽光が天から降りそそいでいる。久遠が差し伸べた手がすぐそこにあり、「ぼくも連れてって」と声を発した途端、久遠が碧斗の手をぐっと掴んだ。  死に満ちた夢は見なかった。  目覚めた時には涙が頬に流れていて、碧斗は幸せで泣いていた己を知る。  窓から強い日差しが斜めに差し込んでいる。久遠はもう部屋におらず、鞄もない。碧斗が眠っている間に出ていってしまったのだ。  この上なく楽しく過ごした夜だった。  碧斗は一人、白いラウンドベッドの中で数時間前のことを顧みる。  しかし久遠はビリヤードを教える以外には、碧斗に指一本触れなかった。そのことだけが幸せな夢の残像に一点の沁みを落とす。その一点はじわりと広がって、碧斗の胸の奥をチリつかせ、切なく焦がした。

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