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 チロが死んだ。  朝起きて確認したら、鳥籠の底で硬く、冷たくなっていた。上手に育てればまだ五、六年は生きられる命だった。  水が汚れていることが多かった。エサ箱が殻だらけだったこともある。シートの交換も含めて、何年も毎日のように繰り返していた世話が最近はおざなりになっていた。 (ごめんな…チロ)  もっと気にかけるべきだったのだ。このところずっと羽根に艶がなかったからそれとなく気になっていたのに、自分のことばかりにかまけていて病院に連れて行かなかった。祖父の幸雄が生きていたら、「何をやっているんだ」ときつく碧斗をいさめただろう。  犬や猫に比べればあまりに簡単な小鳥の世話さえまともにできなかった。ハイファンでの疲れのせいだと言い訳はできない。こんな生活をわざわざ選んで送っているのは、自分だ。 (なんて奴だ、オレって…)  一回り小さくなってしまった可哀想なチロの死骸を両手で包んだ。  胸にぽっかりと穴が空き、身を蝕む寂しさが広がってゆく。  三年前に幸雄が死んだ時、碧斗は何日も泣き暮らした。でもあの時はまだチロがいてくれたのだ。だからこそ、凍えるような喪失感にも狂わんばかりの寂寥感にも、なんとか耐えられた。  けれど今はどうやってこの寂しさを紛らわせればいいのか分からない。生きていることそのものがひどく億劫に思えてくる。  小さな背中に頬擦りした。ちゃんと世話しなくてごめん、と心で何度も謝った。  玄関の勝手口の前に幸雄が作った小さな花壇があり、初夏の蒸し暑さの中、万年青やスズランが植わっている隅にチロを埋めた。この気温じゃすぐに腐っちまう。そう考えていっそう悲しくなった。  仏壇の線香を持ってきて供えた。線香のけぶる中で盛りあがった土をぼんやりと眺めれば、幸雄やチロとの懐かしい思い出が次々と脳裡をよぎる。  チロは紺碧の海の色をした美しいセキセイインコだった。八年前、仕事帰りにふと立ち寄ったペットショップで見つけた時はまだ幼鳥だったが、自分の名前と同じ色の鳥を飼いたくて、衝動買いしてしまった。よく囀り、手乗りになって碧斗になついた。雄だからか人の声真似も巧みで、郵便局や宅配の配達員、古書店の客などの声真似をしては囀って、場を明るくしてくれたものだった。幸雄もとてもかわいがっていた。 (おじいちゃんの声で、オレの名前を呼んでくれたのにな)  幸雄が死んだ後も、それでずいぶんと慰められた。  思い出せば思い出すほど、深い悲しみが臓腑の底から突きあげてくる。鼻の奥がツンとし、涙で視界が揺らいだ。  居間に戻ると、チロのいた鳥籠が殺風景な和室をいっそう侘しく浮きたたせていて、碧斗は途方に暮れる。まともに働かない頭で茶を淹れ、座卓について一口啜ったものの、死を見たショックでしばらく茫然としてしまった。  また一つの、悲しい永訣。  不思議でならない。  死すべきは祖父でもチロでもなく自分であるはずなのに、なぜみなが先に死んで、こうやって自分だけが最後まで生き残ってしまうのか。  奈落に落ちゆくような喪失感だった。この抜け殻のような虚無をどうやって埋めればいいのか分からない。  できることなら何かに縋りたい。たとえそれがまやかしの偽物であってもかまわない。それでこの気分が変えられるなら、なんでもいい。宗教でもいい。そう、何か強烈な――悪夢からの目覚めのような、輪廻からの解脱のような、そんな確かな悟りさえあれば、救われるのに。  だが、碧斗は実のところ、そんな悟りだの、解脱だの、死後の世界のことなど考えたくもなければ、自分に魂などあって欲しくないとすら願っているのだった。  中学の遠足で行った美術館で見た、地獄絵図がきっかけだった。  その時に見た地獄絵の中で死者たちは、炎に焼かれ、全身を爛れさせて、それでもなお容赦されずに鬼たちに槍で身体を幾重にも串刺しにされていた。見るも無残な、凄絶な光景だった。  その絵の解説で碧斗が死に行くところは阿鼻叫喚の地獄だと知らされた。  阿鼻地獄は八大地獄の最下層といわれる。親殺しなど、最も罪深い者たちが落ちる地獄で、落下だけで二千年を要し、その後は四方八方からの火炎で永遠に焙られ続ける。そこにあるのは終わりのない死の苦しみだけだ。 (なんてな、冗談じゃないよ)  だから魂なんていらない。死んだらもうそれきり、命も魂も、もろとも朽ち果ててしまってかまわない。いや、いっそ今、何もかもを捨てて、自分を無に帰すことができるなら。この世に豊崎碧斗などという呪われた存在は生まれなかったかのように、今すぐ消えてしまえたなら。  何も考えずに植物のように生きたかった。地面近くでひっそりと生き、誰に見向きもされず、人知れず死にゆきたい。  頭の中が熱くなったかと思うと、また涙に視界が潤む。涙が頬を伝い、顎から落ちて脚の上で組んだ手を濡らす。自分が泣き虫だったことを碧斗は思い出した。 (泣いたってしょうがないのに)  拳で頬を拭った。  自分ならばいくら破滅してもかまわない。  けれど、母も、祖母も、祖父も――――そして、今日逝ったチロも。  どうか自分の知らない、そして自分がけして行くことのないどこかで。  ああ、あの小説に出てくる、セヴンス・ヘヴンのように神から祝された場所で、どうか穏やかでいられますように。  次々と流れる涙が収まって、濡れた頬が渇くまで。碧斗は祈るようにじっと座っていた。

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