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我に返ったのは玄関のブザーが鳴ってからだった。
今日は宅配の来る予定がない。配達員以外に店の裏にある玄関のブザーなど押す人はいないから、誰だか見当がつかなかった。
二十年前に幸雄が取り付けたブザーは相手の顔が見えるような今どきのインターフォンではないから、碧斗は怪訝に思いながらドアの覗き穴に片目を添えた。丸い硝子にほんのりと浮かんだ来訪者の顔にぎょっとする。久遠だった。
(どうして…)
ごくりとつばが喉を落ちる。なぜ、この男はこう、こちらを驚かせるような登場の仕方ばかりするのだろう。
おそるおそるドアを開ければ、久遠はいつものように堂々と、そして何を考えているのか半分分からないような飄然とした微笑を浮かべて、碧斗を見おろす。背が高いので、こうも近いと目線を合わせるのに顎をあげねばならなかった。
「お店が開いていなかったから。余計な世話かとも思ったけど、張り紙もないしな。具合でも悪いのかと思って、こっちまで来てしまった」
裏の玄関まで来たきまり悪さを取り繕ってでもいるような口ぶりだった。
そういえば今日は水曜日で、久遠がよく来店する日だ。昨日までは覚えていたのに、チロのことですっかり失念していた。
先日ハイファンに来てくれた時、久遠は碧斗の寝ている間にいなくなってしまった。だからなんとなく落ち着かない気分で今日という日を待っていたのだ。
「もしかして泣いてた?」
図星を突かれて、はっとした。長いこと泣いていたから、鼻だの目だのが赤く腫れてみっともないに違いない。
「邪魔したかな。今、一人?」
久遠の声かけはいつものように親身でやさしい。碧斗は尻のポケットからメモを取り出した。
『一人だった。邪魔じゃない』
そうか、と久遠が息をつく。
「今日は、お店は休み?」
これには曖昧に答えるしかない。チロの死体を見るまでは、むろんちゃんと店を開けるつもりでいた。だが、すっかりその気が失せてしまったのだ。
答えに窮してもぞもぞしていると、久遠は怪訝そうに小首を傾げる。
「まあ――ともかく、病気でないようだから安心した」
『ご心配ありがとう』
なんとか、それだけを書いた。
「いや……」
それからしばらくの間、気まずい空気が流れた。話題がないわけではないけれど、どう切り出すべきか分からないようなもどかしい沈黙だった。
『あがっていく? 麦茶くらいなら出せるけど』
続けて書いた文字に自分で驚いた。まさか久遠を自分から家に誘うとは。己の大胆さにびっくりする。
しかし梅雨が明けて数日たった今日は、朝から気温が高い。久遠のこめかみからも汗がひとしずく、顎へと流れている。なんだかこのまま帰ってもらっては悪いような気がしたのだ。
「それはありがたいな」
『一人暮らしでむさくるしいけど』
「そんなこと気にしないで」
屈託なく落ち着いた返事からは、生来の穏やかさが伝わってくる。この穏やかさに救われてばかりだなと、碧斗は不意に泣きたい気持ちになった。
『じゃあどうぞ』
招き入れると、久遠は丁寧に「おじゃまします」と挨拶してドアをくぐってくる。あがりがまちで靴を揃え、玉暖簾を手でよける。そんな古風な所作も板についていた。
和室に通して座布団を勧めると、足を胡坐に組んで座る。洋風の暮らししか送ったことのないような印象だったが、畳敷きも慣れているようなのでほっとした。
麦茶を出し、座卓を挟んだ久遠の正面に碧斗も腰をおろした。
だが茶に誘ったものの、出せる菓子もないことに気づき、我ながら気が利かないなと恥じ入る。久遠が一口飲んだ後のカランという氷の響きがやけに惨めったらしく耳を打ち、軽はずみにも部屋に誘ったことを早くも後悔した。
『この間はありがとう。ビリヤードもダーツも、あなたの話も、楽しかった。寝てる間にいなくなってて、びっくりしたけど』
嫌味にならないように注意しながら、気になっていたことを書いた。久遠は顔色一つ変えずに答える。
「午前中に仕事があったんだ。気持ちよさそうに寝ていたから、起こさなかった。でも黙って出てきてしまって申し訳なかったな」
謝られては恐縮してしまう。碧斗はぶんぶんと首を振った。
『おかげで良く眠れたよ。睡眠不足だったから助かったし』
久遠が胸の前で両手を動かす。いったい何事かと、驚いた碧斗はぽかんとしてしまった。
《それは何よりだ》
久遠の手話がそう伝えてくる。碧斗は慌ててペンをとった。
『久遠さん、手話ができるの?』
久遠が気まずそうに眉尻をさげる。次の返事は声を使っていた。
「ごめん。勉強し始めたばかりなんだ。読み取るのは少し慣れたけど、自分で伝えるのはまだこの程度。きみと蓮沼教授とのやりとりを見て、勉強してみたいと思ってさ。教養にもなるからな。ところで今、何をしていたところ?」
何を――――。
突如として、チロの死に意識を引き戻されることになった碧斗は、久遠の背後にある鳥籠へと視線を這わせた。チロのケージにはまだ水もエサもあって、生き物のいた気配が色濃く残っている。そんな寂しいケージを見るだけで、チロを喪った悲しみがぶり返しそうになった。
視線を追った久遠が同じように眺めて不思議そうな声をあげる。
「鳥籠か。鳥はどこ? 放し飼い?」
天井のあたりを見回す。生きた鳥を探しているのだ。
碧斗は手話を習いたての久遠に気遣って、再びペンをとった。
『さっき、起きたら死んでた。土に埋めて、線香を供えたところ。チロっていって、すごく綺麗な青い鳥だったんだけど。オレの世話が悪くて、死なせちゃった』
平然を装いたかったが手が震えた。
「だからさっきから沈んだ顔をしていたのか」
哀しい心に寄り添うような深い声を碧斗にそそぐ。我慢していた嗚咽が喉元まで込みあがった。
「それで店を開けられなかったんだな」
なんとか頷いたが、涙を我慢して唇がみっともないほど震えてしまう。
チロのことなど誰に打ち明けるつもりもなかった。なのにこうやって告げてしまえば、独りで背負っていたものが少しだけ軽くなる。
「今夜は、ハイファンの日?」
ところが、続いた質問に呆気にとられる。こんな時にどうしてそんなことを訊ねられるのか。なんの意図があるのかと疑心暗鬼に囚われつつ、碧斗は首を振って否んだ。
「それなら、今から出かけないか」
久遠が積極的に提案する。
「海はどう。今日は晴れていて、きっと気持ちがいいと思うけど」
もしかして、慰めてくれているつもりだろうか。
温和にほほえんでいる久遠に、碧斗の目は自然と惹きつけられた。
久遠の大事な時間を使わせていいのかと、わずかに心が咎めたが、今だけは、この底抜けのような悲しみから連れ出して欲しいという願望に勝てなかった。碧斗はこくりと頷いて頼んでいた。
(大丈夫。これはきっとただの憐憫だ)
これは小鳥を亡くした、言葉もしゃべれない気の毒な男娼への、久遠なりの感傷なのだ。
久遠はやさしい男だから、哀れな人間を慰めてくれようとしているのだろう。今だけは、その善意に甘えてしまいたかった。
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