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近所の郵便局からネットで売れた書籍を発送して、近くのパーキングに停めてあるという久遠の車に向かった。久遠の車は良く名の知れた高級車だった。やはり彼はどこかの御曹司なのかもしれないと、碧斗はその車に同乗することにすら気後れがした。
道は空いていて、走り出したセダンは地面を舐めるように移動する。程よい空調とメローなAORが流れる車中は心地よかった。
「遠出してみよう」
景気の良い言葉を投げかけられる。
ハンドルを握る久遠の男らしい手にふと視線を向ければ、今日は指輪がない。そうと気づいた碧斗は、急に気がそぞろになった。どうして、今の今まで気が付かなかったのか、不思議なくらいだ。
先日までしていたのにこれはどうしたことか。
いよいよ新しく誰かを好きになったのか。それとも単に付け忘れてきたのか。
もっとも、先日まで律義につけていたのだから、今日に限って付け忘れは考えられない。だとしたら、やはり好きな相手が新たにできてあの指輪を外した可能性が高い。もしかしたら、もう両想いになっていたりして。
考えれば考えるほど、落ち着かなくなる。
(久遠さんの好きな相手って、どんな人なんだろう)
きっと久遠に似合いそうな上品で賢い人物にちがいない。次に久遠と会う時は新しい恋人とのおそろいのリングを目にする羽目になるかもしれない。
つらい方向への思考が止まらず、勝手に胸が切なくなる。
久遠の温情にかこつけてのこのことついてきた自分がいやに図々しく思われ、車窓を流れる景色も急によそよそしく感じられ始めた。
いつしか車は海岸線を走っていた。
海と空の境界に巨人が頭をニョキリと突き出したような、鬱蒼とした江の島が見えてくる。手前の橋の近くの駐車場に久遠は車を停めた。
今日は朝から夏の陽気だが、車から出ると海のそばのためか、大気は爽快だった。シーサイド特有の解放感があたり一帯に広がっている。
駐車場から西岸は歩いてすぐだった。
海開きを迎えた片瀬海岸は平日でもそこそこの込み具合で、カップルが身を寄せ合い、サーファー達が熱心に練習を繰り返している。親子連れもいて、海の家の近くでは若者のグループがはしゃいでいた。
ゆるやかな風が無数の触手を使って碧斗の頬をやさしく撫で、甘じょっぱい潮の香りが鼻腔を満たしてゆく。波はすぐそこで音を立てていた。
単調なリズムで海が永劫の時を刻んでいる。まさに地球の息遣いを身近に感じているようだった。
抱えきれない悲しみや寂しさは現実だけれど、こうしていると心が洗われて、そぞろな気持ちも凪いでゆく。むろん現実は何一つとして変わらない。でも今、確実に海に慰められているのを碧斗は感じた。
慰めるために海に連れてきてくれるなど、やはりそんなことをしてくれるのは久遠しかいない。
久遠は古書店の贔屓客としての温情を持ち、小鳥を喪った自分を憐れんでくれているのだ。もともとは気に入られなかった売り専だった。なのにこんな厚情を見せる久遠は、根っから思いやり深い人間なのだろう。おそらく相手が碧斗でなくても久遠は同じことをするに違いない。けれど、碧斗は久遠だからついてきた。
(――――あ…!)
突然、海水が細かい黄金をちりばめたように燦然と輝きだした。雲の切れ間から光が漏れ出でて、幾筋にもなって海へと突き刺さる。
天使の梯子だ。
天使が、自分たちの住まいから人間を救いに降りてくる場所。
まるで神様が自分自身を悦ばせるために作りあげたような、この世のものとは思えぬほどの美しい光景に、碧斗の目が釘付けになる。この瞬間を永遠に記憶に留めたいと思った。
「綺麗だ」
久遠が隣で嘆息する。その横顔は海のまたたきを反射して精悍に輝いていた。
連れてきてくれたことに礼を言わねばならない。けれど上手な科白は使えそうにない。あまりにも美しい景色に、どんな言葉を用いてもこの気持ちをあやまたずに伝えられないような気がした。
やがて雲が厚くなって、日光が遮られた。空はただの曇天へと変化する。寄せては引き、引いては寄せる波の音だけが後に残った。
「近くにスペインレストランがある。パエリアが絶品なんだ、行ってみないか」
碧斗は頷いて了承した。まだ久遠と一緒にいられるのだ、という安心感を隠して。
連れていかれたのは、沿岸から脇に入ったビルの二階にある、だだっぴろいレストランだった。
二時という時間だからか空席が目立ち、碧斗達は江ノ島が望める眺めの良いテーブルに案内された。
「スペイン産のワインって飲んだことある?」
久遠がのんびりした口調で問う。
ハイファンではイタリア産が多いと聞いたことがある。コスパが良いらしい。スペイン産というのはエクスクワイアでも耳にしたことがない。
「爽やかな味わいなんだ。せっかくだから飲んでみるといい」
運転があるから久遠は飲まないつもりなのだろう。
『オレだけ飲むなんて申し訳ないよ』
「いいから。気にしないで」
気安い笑顔に、本当にいいんだろうかと心が傾く。
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