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   ◇◇◇  ビルの航空障害灯が夜空で無数に明滅している。暗闇の中で深紅の宝石が呼吸するみたいに。 (生活の明かり、仕事の明かり…)  タクシーに乗っている間に雨が降り出し、碧斗の目の前に散らばっている濡れそぼった無数の光も、まるで夢幻の世界で己の存在を主張しているふうに見える。  久遠の部屋はタワーマンションの高層階にあり、その圧倒されるほどの眺望があまりに綺麗で、碧斗は我を忘れて見入った。冷房の涼しい空気が逃げるのはもったいないと思いつつも窓を開けてしまっていた碧斗を、久遠は放っておいてくれる。碧斗は静かに窓を閉めた。   都会の夜はいつも地面から見あげてきた。  身売りのためにハイファンの地下通用口に入る、その直前に、通りに視線を投げかけてみるのだ。その時に目にするいかがわしいネオンの連なり、物憂げな街灯。それこそが自分に見合ったもので、自分はそんな人生であるべきで、それでいいのだと信じてきた。  けれど心のどこかでは、あの地下通用口から自分を救い出してくれる何かを、誰かを、ずっと待っていたような気がする。いや、むしろもっと昔、三体の死体の転がったあの下町の小さな家の中から出たかった。まさにあの小説で夫を殺した女が、セヴンス・ヘヴンから来た老人に助けられたように。できることなら自分も、生まれ変わった気持ちで眩い暁を見てみたい、そう願っていたはずだった。  あの老人は女にとってまさに天の使いだったのだ。同じように罪悪感で凝り固まった己に変化をもたらしてくれる誰かを、女にとっての老人のような「確かさ」の登場を、碧斗もまた、秘かに願っていた。 「もう少し飲める?」  背後から訊ねられて碧斗は頷いた。  あんな暴露を磯崎から聞かされたというのに、久遠の碧斗への当たりは今までと寸分も変わらずあたたかい。だが内心はどうだろう。殺人を犯した者への嫌悪や侮蔑を感じてはいないだろうか。 (黙っていてごめんなさい。騙していてごめんなさい)  謝らなければならない。このまま見逃してもらうなど虫のいい話だ。  そう考えると、磯崎に暴かれたのはいい機会だったのかもしれないと思えてくる。  これで久遠を騙さずにすむ。黙って嘘をついている状態を続けないですむ。  騙し続けるよりは、真実を知ってもらって距離を置かれるほうが、「人としてずっとまし」なのだから。  ソファの前のテーブルに、グラス二つとグレープフルーツジュースの瓶、アイスペール、そしてジンが置かれた。碧斗の隣に座った久遠がグラスに氷を入れ、ジンとジュースを注いでかき混ぜる。慣れた仕草に、きっと代々の恋人にこうやってカクテルを作ってきたのだろうなと碧斗は思った。  グラスを手渡されてカチンとぶつけられ、久遠が一口含んだのにつられるようにして碧斗も口をつけた。爽やかな飲み口のブルドッグだった。 「あの事件のことはよく憶えている。俺もまだ、子供だったけど」  久遠が口火を切る。 「連日のように、ニュースになっていたから」  碧斗に気兼ねしてか、ぽつりぽつりと、碧斗の反応を窺うようにしてだった。  忘れたいのに忘れられない、あの恐ろしい光景が脳裏に蘇りそうになって、何かが喉に詰まったみたいに碧斗は苦しくなった。 「しかし、きみは正当防衛が認められたはずだ。あの時のきみに罪はなかった。だからこそ、世間もメディアも、きみに多大な同情を寄せたんだ」  励まそうとしてくれている気持ちが、肌に染み入るように伝わってくる。 でもどんな理由であれ、たとえ子供であったとしても、あんな殺人は許されないのだ。自分は、自分の命と引き換えに父の命を奪ったに過ぎない。  半分ほど飲んだブルドッグのグラスを碧斗はテーブルに戻した。 『でもオレは、オレを許していない』  そのメモに対して返された声は、いつになく厳しい響きを持っていた。 「ああ。そうなんだろう。それがきみの頑なさだ。きみは、自分の頑なさによって自らを不幸にしている」  容赦のないことを言う…。真実だと思わせる説得力があるだけに、つらかった。 「きみはきみ自身を許して幸せにするべきだ。きみを許すことは、きみにしかできないことなんだから。全部許してやれ。もっと楽になっていいんだ、碧斗」  鋭くも親身な指摘は、碧斗の痛いところを突く。  あの小説で女を励ました老人と同じような助言の言葉を、不思議と久遠は使った。 (許す?)  しかしそんなことができるだろうか。  して、いいのだろうか?  もしこれが、長い間、罪悪感と自己嫌悪に凝り固まってきた自分に与えられた、生まれ変わるための最後のチャンスなのだとしたら。  だとしたら、このチャンスを逃したら自分は一生このままだ。  生きる希望を持てず、虚無の底を漂うだけのまま――――。  久遠の言う通り、自分を変えるのは自分にしかできない。それは紛れもない事実だ。  碧斗は心許なくうなだれる。  自分がまだ、羽化も始まっていない雛のように頼りなく思える。それでも取り換えようもない自分の人生に、久遠が直接語りかけてくれたのだ。それを無駄にしたくなかった。  ある種の決意をもって唇を噛み、碧斗はしたためる。 『よく考えてみる。自分を本当に許せるようになれるかは、まだ分からないけど』 「なれるさ。俺も手伝う」  久遠のほっとしたような声が追いかけてきた。  しかし、そうそう久遠の温情に甘えてばかりもいられない。こんなふうに親身に助言をくれた友情だけでも、身に余るほどなのだ。

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