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「このカレシさんのために足を洗ったのか?」  碧斗がペンを走らせる。その手は見るからに震えていた。 『違う』 「じゃあなんでだよ。ウリは男を漁れるからって、さんざ悦んでたくせによ」  蒼白となった顔を碧斗がこわばらせる。痛々しくて見ていられなかった。 「紹介してくれないか、碧斗」  碧斗が久遠へと視線を跳ねあげる。まずいところを見られたとでも言いたげな、可哀想なほどの動揺を表情に漂わせていた。 「要件が済んだら早々にお引き取り願いたいしな」  グリーン・シーの最後の一口を喉へと流し込みながら久遠は淡々と告げた。怒りに気分が荒げそうになるのを、なんとかこらえた。 「申し訳ないなあ、お邪魔して」  男はわざとらしいほど下手に出た言い方をする。 「本当に」  久遠は不快を隠さず冷ややかに答えた。拗ねた声を男が返す。 「そう言わず、仲良くしましょうよ。俺は磯崎っていいます。こういう者で」  Gパンの尻ポケットから出した名刺には、キャバレーオーナーの文字があった。 「ハイファンでのコイツの客だったんだけどね、ウリセンやめたってんで、驚きましたよ。ウリはいろんな奴にヤラレまくれるって、嬉しそうだったんだけどなあ、なあ、碧斗?」  ますます目を見開いた碧斗が、磯崎を愕然と見つめる。今にも泣きだしそうだ。 「そうだ。言っときますけどね、碧斗はどうしようもねぇ不感症ですよ。俺らの間じゃ、便所って呼ばれてるけど。反応が悪いったらねえんですよ。プロのくせになんでもかんでも下手でさ。——あ? それとも、もう、あんたも経験済みかな? コイツ性格はカタイけど、尻だけは軽いでしょ? どうしてだか分かります? ねえ、あんた、どうしてだか知ってます?」  クスリでもきめているのか。磯崎という男は呆れるほど粘着質に、饒舌に絡んでくる。 「なあ、碧斗よ。なんでお前はそんなに精神が病んでいるのかって話だよ。なんで、お前はそんなにイカレちまってるのかって話だよ」  そろそろ、この無神経な男の話を遮ろうと久遠が口を開きかけた途端、磯崎が思わぬ言葉を発した。 「おやじを殺しちまったからだろ? な? だよな? んで、お前のアタマの大事な神経のどっかが壊れちまったんだよな? だからお前は頭がおかしいんだよ。感じねぇのも、しゃべれねえのも、そのせいなんだよ」  それから久遠に向かって、テーブルに乗り出すような勢いで続ける。 「二十年くらい前だよ。墨田区の下町で、旦那が妻とその母親を殺して、息子にその場で刺し殺されちまったって事件、あったでしょ。あの息子がコイツ。こいつは、自分の父親を刺し殺してんの。信じられねえだろ。でも本当だ。だから碧斗はどっかのネジが外れてんだよ。顔こそ可愛いが、頭がおかしいんだ、コイツは。そうだろ? 碧斗」  頬を蝋のように白くした碧斗は、愕然としたまなざしを磯崎の顔に置いて微動もせずに話を聞いていたが、やがてフイっと壁へ顔を背けた。その目許に涙が光る。  磯崎の話は驚愕に違いなく、一方で客はもう店に一杯になりつつあった。大声でしゃべりすぎている磯崎に周囲からの視線が集まっていて、誰も、何も、話していなかった。磯崎の言葉だけが店に響いて、周囲からの関心を引いていた。  磯崎は碧斗の過去を暴露したことに至上の喜びを感じてでもいるかのように嬉々としている。  吐き気を催すほどの嫌悪が久遠の裡に沸きあがった。碧斗の心にまったく寄り添えていない自分に、いてもたってもいられなくなる。咄嗟に立ちあがった久遠は磯崎を睥睨した。 「どいてくれないか。邪魔だ」 「は? 邪魔?」  反射的に身を退いた磯崎の前から、碧斗の身体を盗んだ。すっかり蒼褪めた顔で目を赤くしている碧斗は、久遠を見あげるまなざしに強い怯えの色を刷く。 「出よう」  戸惑いを見せる碧斗の手首をかまわず引っぱった。  バーテンダーは大声でしゃべっていた磯崎をさすがに止めようとしていたのか、テーブルのそばまで出て来ていて、久遠が会計を頼むと「またで結構です」と神妙に答える。  ともかくこの場から一刻も早く碧斗を連れ出したかった久遠は、礼を伝えて店を後にした。  碧斗の手首をとったまま通りに出て、最初に来たタクシーを拾うと、半ば強引に碧斗を引き連れて乗り込む。  店を出る前から悄然としていた碧斗は、今や首筋までが青白い。磯崎の容赦ない暴露にショックを受けてしまっているのは明らかで、なんとかして慰めたかったが、何をどうすればいいかは久遠にも思いつかなかった。 「今夜は、俺がきみを買う」  そんな言葉が喉をするりと抜けた。  碧斗が虚を衝かれたようにうっすらと唇を開く。 「ごめん。俺はこう見えて、強引なんだ」  困惑したように眉をひそめる。何を言っても無駄だと悟ったのか、睫毛を震わせて碧斗は小さく吐息した。  それから窓の外に視線を置いた碧斗は久遠の腕の中で静かだった。壊れやすい硝子を抱くように、久遠はその身体を腕に包んだ。

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