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店の扉に埋め込まれたプレートにゲイバーの英字があることに、久遠は驚いた。碧斗がプライベートで出入りするにはいささか場違いだと思ったからだった。
開店は十九時で、早い時間に入ったためか、客は自分達と、テーブル席でワインボトルを間に置いて手に手をとり合っている一組のカップルしかいない。
「いらっしゃい、碧斗くん。今日はお連れがいるんだね。カウンターでもテーブル席でもいいよ」
立ち姿の見栄えするバーテンダーが碧斗に向かって声をかける。壮年の魅力を全身から揺らめき立たせているような好漢で、屈託ない笑顔からも親しげな口調からも、碧斗がこの店でかなりな常連であることを伝えてくる。どうやら自分は勘違いをしていたらしい。バーテンダーが愛想のいい会釈をしてきたので、久遠もし返した。
碧斗に促されて二人掛けのテーブルに向かいあって座った。バーテンダーが人懐こい笑顔のままオーダーをとりに来る。碧斗はポロシャツの胸ポケットから手帳を取り出し、彼の顔を見ようともしないで文字をしたためる。今日の碧斗はずっとこんな覇気のない様子をしていた。
『腹の足しになるものをお願い』
碧斗の注文に、白身魚のカルパッチョとオリーブ添えのフォカッチャをバーテンダーは勧めてきた。
《久遠さんはそれでいい?》
「うん。どれもおいしそうだ」
「食前酒も召しあがりますか」
視線をあげた碧斗が「どうする?」と目顔で訊ねてきたので、久遠は「まかせる」と答えた。
数種類のカクテルの紹介を受けた後、白ワインの中口を碧斗が頼む。
バーテンダーが離れるのを待って、久遠はざっと店内を見回した。
シックでこじんまりとした、いい雰囲気の店である。黒のモノトーンに統一されたテーブルに椅子、薄墨色の木目が効いた品の良い壁とカウンター。手入れの施された観葉植物、ごく控えめに抑えた白色照明に、静かなジャズミュージック。店の雰囲気はバーテンダーの人柄によるものが多いと聞くが、この店の洗練された様子もそれだろう。
「居心地のいい店だね」
久遠の賞賛に碧斗が嬉しそうに相好を崩す。その笑顔は美しいが、やはりいつもより不調に見えた。
「今日は、具合の悪いところを無理させたんじゃないか?」
心配になって訊ねると、碧斗が意外そうに『どうして、そんなことを?』と訊ねてくる。
「しんどそうに見える。今日、もし俺のために無理させてしまったのなら、早めに失礼しよう」
碧斗は焦ったように否定する。
『そんなことない。体調は悪くないよ』
ならば小鳥を喪った悲しみが続いているのだろうか。蓮沼の話からも相当可愛がっていたようだから、その可能性は高かった。
食前酒がきたので乾杯した。バーテンダーの腕前を拝察するに充分なカクテルだった。
「旨い」
《そうでしょう》
気分は芳しくないだろうに、久遠の感嘆に碧斗は再度嬉しそうに破顔する。この店は碧斗にとってオアシスのように大事な存在なのだろう。透明感のある笑顔がそう伝えているように思えた。
「きみはここの常連?」
《うん。よく来る》
「まったく、一樹の奴め」
人差し指を眉間に押しあてて思わずそう唸った久遠を、碧斗がきょとんとした目で見あげてくる。
「きみはノンケだって、一樹から聞いていたんだ」
白状すると、卒倒しそうな表情に変わる。すっかり戸惑った様子で、《どうしてだろう》と、困惑しきったまなざしをよこしてきた。
「誤解していたんだろうな。きみの様子が気になって元気かどうか訊ねた時に、ノンケが身を売るのは大変だろうって、きみについて話していたんだ。ノンケが売り専をするのも珍しくはないだろ? だから俺はてっきり、きみもそうなのだろうと思い込んでしまったんだ」
そこまで聞いた碧斗は、何を思いついたのか、慌てたようにボールペンを走らせる。
『しつこくつきまとう同僚に、そう嘘をついたことがあるからかもしれない』
一気にしたためる。なるほど、と、久遠は頷いた。確かに碧斗ほど見目麗しければ、男娼館の同僚から口説かれるのも納得だ。
『でもオレは、同僚と恋愛をする気がなかったし、正直、そういうのは迷惑だった』
言い寄ってくる同僚に碧斗がついた嘘を、一樹が本気にして、その一樹から伝え聞いた久遠もそうと信じてしまった。まったくとんだ伝言ゲームだ。久遠は苦笑を禁じ得なかった。
「一樹と俺の勘違いだったんだな」
真顔になった碧斗がしかつめらしく頷く。碧斗がこういう顔をすると至極真面目な雰囲気になるのだ。
モッツァレラチーズをベースにしたカプレーゼが届いた。碧斗が繊細な手つきで取り分ける。カプレーゼは濃厚なチーズが格別だった。
フォカッチャを千切って口に運びつつ、色とりどりの野菜と刺身で盛りつけられたカルパッチョを二人でつついた。バーテンダー手製というドレッシングもうまみが効いて秀逸だ。
このバーテンダーはペアリングにこだわりがあるらしい。食後のカクテルはいずれもウォッカベースで、碧斗には甘口のキス・オブ・ファイア、久遠には辛口のグリーン・シー。双方にドライベルモットが使われており、テーブルの上に爽やかなフレーバーが薫った。
「食事もカクテルもおいしい」
《そうでしょう》
酒のせいか、上等な食事のおかげか、穏やかなムードでどちらともなくほほえんだ。
ひょろりと痩せた男が寄ってきて、碧斗に声をかけたのはそんな時だった。
先刻、乱暴にドアを開けて店に入ってきた人物がいたのには気づいていた。男は断りもなく傍の椅子を持ってきて、碧斗の隣に横暴な態度で腰かける。
「ウリセンやめたからってさっそく幸せモード垂れ流してんじゃねえぞ、碧斗」
不躾にそう声をあげた男が、碧斗の肩に肘を乗せて顔を近づける。嫌そうに身体を退いた碧斗の様子から察するに、歓迎できる相手ではなさそうだ。
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