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 気が抜けたようになって畳の上で横になり、チロのケージをぼんやりと視界に映す。  さっきまでの、久遠と過ごしたいろいろな場面を噛みしめるように反芻してみると、笑いたくなるような、泣きたくなるような、よく分からない感情に心がぐらぐらと乱される。恋をするとこんなふうになるものなのだろうか。  誰のために久遠は薬指の指輪を外したのだろう。  万、万が一にもだけれど、オレのため……? なんてわけないだろうと、自己突っ込みを入れた。  何しろ彼は、一度きりのセックスで碧斗に「見切り」をつけた男だ。  二度目にハイファンへ来店した時も久遠は碧斗を抱かなかった。ビリヤードを教えてくれる以外、指一本さえ触れなかった徹底ぶりだった。今日もそうだ。少しのスキンシップもなかった。  この恋が絶望的であると、それらの事実が厳然と伝えてくる。そう考えた碧斗は、途端に呼吸がままならなくなった。  磯崎から連絡が入ったのは、碧斗がそんなふうにあれこれとままならぬ思いを巡らせていた、夜の七時を過ぎた頃だった。  部屋は静寂に包まれていて、ぶるぶると震えるスマホを手にした碧斗は、ぽかりと四角く光る画面を頭上にかざしながら操作した。相手が磯崎と分かって気が進まなかったが、やむなくメールを開く。『明日は同伴してやる』との文言があった。磯崎は碧斗のハイファンでのシフトの入っている曜日を知っていて、このように誘いをかけてくるのだ。 『あの店はもうやめた』  指は自然とそう打ち返していた。なんとなく考えていたことだったが、文字として可視化することで碧斗の決心は固まった。 『なんだそれ』  磯崎の浅薄な嘲笑が聞こえてくるような返事が届く。 『あの仕事は嫌になったから、やめた』  ここまでストレートに伝えれば分かるだろうと思ったが、磯崎には理解できないようだ。 『他の店に移るならどこなのか教えろ。買いに行ってやるから』  どうしてそんなに分かってくれないのだろうと、苛々しながら碧斗は打ち返した。 『違う。売り専自体をやめることにしたんだ』 『まさか。嘘だろ?』  返事はすぐに来た。 『嘘じゃない。本当だ』  久遠以外の男に抱かれるのが嫌になった。理由はそれだけだ。  だからって、むろん久遠が抱いてくれるはずもないことは充分に承知している。  それでもかまわない。ただ、自らの虚無を久遠以外の男で埋めることが心底嫌になったのだ。 『相手はオレの他にもいるんだろ。そいつらを抱けよ』  続けて畳みかけた。磯崎には相手が何人もいることを碧斗は前々から知っている。 『つまらねえことを言いだすなよ』  しかし磯崎は簡単に引きさがらない。 『あなたにとってはつまらないかもしれないけど、オレはあんな仕事つらかったんだ』 『そんなことねえだろ。嫌なことを忘れられてよかったんじゃねえのか』  セックスドールのように乱暴に扱うばかりの磯崎に言われたくない言葉だった。 『たとえそうでも、あなたに言われる筋合いはない』  腹立ちまぎれにそっけなく返すと、次の返信までに、嫌な感じの間があった。 『父親を殺した過去があるくせに、偉そうだな』  不意に、ぽんと投げかけられた言葉に心臓が止まりかけた。呆気にとられ、信じられない気持ちで碧斗は目を見開き、スマホの画面を凝視する。心臓が暴れ、呼吸が苦しくなった。 『なんで、それを知ってる?』  震える手で、胸で喘ぐようにして打ち返した。無視すればよかったと思い直した時は、もう遅かった。 『有名な話だ。矢上も知ってる』  無情としかいえない返事に驚愕する。矢上もだなんて、そんなそぶりは一度だって見せたことがないのに。 『だからお前はまともな人間じゃねえんだよ。分かんだろ?』  いったい、何人の人間がこの事実を知っているのだろう。自分が殺人者である、ということを。  硬直したまま、碧斗の指はもうどんな言葉も打つことができなくなる。 『だから、どうせまたウリしたくなるに決まってんだ、お前は。なんてったって不感症のくせに、セックス依存症なんだからよ。それだけ精神が病んでるんだ』 『次の店が決まったら、すぐに知らせろ。買いにいってやるから』  文字列の一つ一つが、矢のように突き刺さってくる。  久遠への想いを噛みしめ、ただただしめやかに生きていこうとしただけなのに。  悪夢よりも冷酷な現実を思い知る。

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