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 西小路はミステリー作家になってからも、純文学に通じる深い思索に富んだ、精神性の高い物語を書き続けていた。しかしここ数年、特に映画化やドラマ化をたて続けにされるようになってからは、犯罪の複雑さや突飛なトリックなど、いかにもサスペンス好きが悦びそうな奇抜な作風に変わってきている。それがまた『このミステリーがすごい』などで紹介されてヒットしてしまうから、今では西小路といえば和製アガサと称されるくらい、ミステリー作家としての地位のほうが高かった。  おそらく西小路は頭が良いのだろう。そんな話もそつなく、面白く、書きこなしている。だが彼独特の心情豊かで繊細な持ち味が損なわれているようで、長年のファンである碧斗はなんとなく不満だった。彼の本当の実力はこんなものじゃない。純文学において最大限に発揮されるはずだ。そう碧斗は締めくくった。 「そんなに実力のある作家かな」  何とも淡白な言葉に、カチンときた。その心情が顔に出たのだろう、久遠はなだめるように言葉を継ぐ。 「いや、いや。なかなか鋭いと思ったぞ。さすが古書店のオーナーだ」  頬杖をついていた手のひらを、ひらひらと仰いで見せ、調子よく言ってのける。どこまで本気なのかしれない。  そうこうしているうちに前菜のサラダとワインが届き、ひとまずこの話題は打ち切ろうと碧斗は腹の虫を治めた。 「このティント・レセルバのレッドは、スペイン王室御用達のワイナリー、リルケス・デ・マスカルの定番で、長期熟成の樽由来の香味とタンニンのバランスが絶妙です」  ワインを注ぎながら店員が語る。  碧斗には馴染みのなかったスペイン産ワインだが、スペインはフランスとイタリアに次いで世界三番目にワインの生産量が多いという。  薫り高いうえに口当たりの良いワインに《おいしい》と手話で伝えると、久遠が満足げに《よかった》と同じように手話で返事をよこす。  パエリアは二人分が鍋のまま盛られて届いた。  大ぶりの海老にムール貝、脂ののったポークはイベリコ豚だと紹介を受け、その間を飾るように彩りの良いパプリカが並んでいる。贅沢で食欲をそそる匂いが二人の間に立ち込め、碧斗はいつになく快い空腹を感じた。 「このパエリアは真似ができないんだ。家でいくらがんばっても、こうおいしくはならない」  称賛の声で話しながら、久遠は率先してとりわける。  いかにも外食ばかりしていそうな久遠が料理をしている姿など想像したこともなかったが、この男が台所に立つというのもずいぶん男ぶりのあがる光景かもしれない。  一方で碧斗は料理がまったくできなかった。  刃物がことごとくダメなのだ。先の丸いはさみだけはかろうじて使えるが、ナイフもカッターも無理。古書店の仕事にも不便だけれどこればかりはどうしようもなかった。  尖った刃物がいっさい駄目なのだ。手にした途端にひどい震えがきて、うずくまってしまう。いったんその発作が起きるとなかなか収まらない。そのため、コンビニ弁当や店屋物ばかりで食事をしのいでしまっていて、だから自分は一生誰かに手料理をふるまうことなどできないのだと、諦めている。  医者からは心的外傷の診断を受けている。それほどにあの事件は、碧斗の心身に深い後遺症を残していた。すなわち性的不感症・刃物恐怖症・失声症……こんな自分が誰かを好きになるなど、そもそもの間違いなのだ。  ともすれば久遠に惹きつけられそうになる自分に、碧斗はあらためてそう言い聞かせた。  もともとアルコールには強くないのに、あとをひくワインを二杯も飲んでしまい、結局ほろ酔いになって、帰りの車内では不覚にも眠ってしまっていた。 目醒めた時には久遠の車は自宅の玄関前に停まっていて、まずいと急いで起きても、後の祭りだった。 《寝ていて、ごめん》  慌てて手帳にしたためた。 「謝らなくていいよ」  エンジンを止めながら、なんでもないような顔で久遠は言う。 「それより、今夜からは小鳥がいなくて寂しいだろうけど…。――大丈夫?」  惜しげないやさしさに満ちた言葉と、親身な声かけに、思わず全身が動かなくなる。 (――いやだ。降りたくない)  この温情にもっともっと甘えていたいと、わめいている自分がいた。 (もっとどこかへ連れてって。このまま…)  今日は、間違いなく久遠に慰め、励ましてもらった。  それだけでも過分すぎるほどの恩恵なのに、まだ久遠から離れたくないと駄々をこねているさもしい自分がいる。 《大丈夫、ありがとう》  そんな自分を振り捨てて、返事を綴った。その字を見せて車から降りかけると、再度、声をかけられる。 「元から細かったけど、初めて会った時より痩せたんじゃないか? ちゃんと食事をとって」  親切な心遣いが、いっそう胸に染みる。  でも、あまり心配しないで欲しいのだ。一人で頑張ろうとする気持ちが萎えてしまうから。 「それで、次はいつ?」  軽妙に言葉を繋がれる。碧斗の思考がにわかに止まった。 「約束したろ? 次はおごってくれるって」  首をひねって考えるそぶりを見せる。碧斗はすっかり面食らってしまった。 「そうだな……例えば次の定休日、来週の火曜日あたりは、どう?」  ずいぶんと積極的な申し出だ。  確かに今日の代わりをおごり返すと約束した。しかし、そんなにすぐに予定を立てるなんて。  碧斗は流れに飲まれるまま、久遠の質問に頷いていた。 《空いてる》  久遠としてはむろん友人としての気持ちだろうが、それでもまた今日みたいに一緒にいられるのだと思えば、途方もない喜びが勝る。  エスクワイアという店を知っているかと尋ねると、久遠は知らないと答える。ならばぜひ矢上のおいしい料理を紹介したい。 「楽しみにしてる」  久遠が涼しげにほほえむ。そんなたわいない笑顔すら、碧斗の胸をチリチリと焦げ付かせて、甘苦しくさせた。  逃げるように車を出た。  小走りに玄関に入って、そそくさとドアを閉める。  心臓が早鐘を打つ。  すぐ後ろに久遠がいるみたいに全身が切なくわなないた。自分で自分を抱きしめなければ、膝から力が抜けて立っていられそうにないほどだった。  玄関のドアに凭れ、そのまま目を閉じてじっとした。やがて車のスっと走り出す音が聞こえて、久遠が去った気配を碧斗は感じとる。  チロへ線香を供えるために外へ出た。  沿道に久遠の車はなく、静寂が夕暮れを包んでいる。  線香を土に刺し、チロの眠る場所を眺めた。 (お前がいなくなって、寂しくてならないよ、…チロ。でも、おかげでオレは今日、好きな人と一緒にいられたんだな)  好きな人、という言葉を使った自分にあらためて気づく。ごまかすことはできない。久遠が好きなのだ。  久遠の声と面差しが、天使のはしごのまたたきを反射した穏やかな横顔までもが、脳裡に鮮やかに思い出されて心を焦がす。好きだ、好きだと、心臓の鼓動の一つ一つが叫ぶように訴える。  片想いでいい。友人の一人で、もちろんいい。  ただ、心の一番大事な真ん中に、久遠への恋心をそっと灯そう。  手のひらを胸に押しあてた。  離れたばかりの久遠にもう会いたくなっていた。

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