28 / 39

【7】p28

 帰り、エスクワイアの入るビルから地上に出たところで、背後から磯崎に声をかけられた。夏の夜独特の熱く湿った空気が人いきれの歩道を舐めていて、ネオンを反射した薄明かりの空には雲一つ浮いていなかった。 「矢上と、いい感じだったじゃねえか。何話してたんだよ。口説かれたのか? こないだの男とは、もう別れたのか?」  矢継ぎ早のとんちんかんな質問にうんざりした。なぜ、この男はこういう視点でしかものを考えられないのだろう。  あの青年を店に置いてきていいのか、と皮肉を書こうかとも思ったが、相手にするのも煩わしいと思って放っておいた。これから久遠とジムの前で待ち合わせをしている。磯崎へは無視を決め込んで、駅に向かって歩き始めたが、磯崎は相変わらずしつこかった。 「三日かそこらで別れるとは、お前らしいや」  勝手に決めつけて楽しそうに続ける。確かに数日前、久遠と一緒にいたテーブルで邪魔をされ、過去を暴露された。でもその後で碧斗は久遠の自宅に招かれ、逆に励まされて、久遠から好きだと告白を受けたのだ。自分を開放しようと決心することもできた。 「別の店でウリをするなら教えろ。また買いに行ってやるから」  先日メールで送ってきたような科白を、磯崎は性懲りもなく口にする。 もっとも、磯崎に暴露されたゆえに久遠との仲が急展開を見せた現実を思えば、そうそう邪険にするのも罰当たりかもしれない。碧斗は足を止め、ズボンのポケットから手帳を取り出した。  『彼とはつきあってる』  ふん、と、磯崎はつまらなそうな相槌を打った。 「あいつの顔、どこかで見たことがあるんだ、俺」  さらりと続けられて不穏に心臓が跳ねた。磯崎と久遠が顔見知りとは思えない。 『どこで?』  顎の先を親指と人差し指に挟み、磯崎が考えるそぶりを見せる。 「それが、思い出せねえんだ。あいつの仕事、何?」  問うてくる顔は屈託ないものだが、油断はならない。磯崎はこちらの弱みにつけこんで脅迫まがいなことをしかねない人間だ。 『知らない』 「嘘つけ。知ってんだろ? 悪いことはしねえよ。気になってるだけだから教えろよ」  警戒した碧斗の内心を察してか、からかうように笑いながら続ける。 「雑誌かなんかだったと思うんだよなあ。あいつ、有名人?」  久遠がなんらかの雑誌に載るとしたら学術誌だろう。大学の教員がインタビューを受けて記事になるのは珍しくないし、久遠の教えている大学は一流大学だ。講師としてインタビューを受けた可能性もある。だが、磯崎が文学系の雑誌に目を通しているとは思えなかった。  動揺する碧斗に磯崎が陰険にほくそ笑んだ。 「有名人なら面白れぇなあ。この男が付き合ってるのは人殺しだって、バラしてやってもいいな。とんだスキャンダルだぜ」  途端、全身で電気に触れたような痛烈な不安に襲われる。頭の先から踵へと血の気が引き、震える手で碧斗は字を書き殴った。けして久遠をそんな目に遭わせてはならない。 『そんなことしたら、名誉棄損で訴えるぞ。本気だ』  磯崎は呆れた表情でまじまじと碧斗の字を見る。 「冗談だよ…。お前のそういう反応がおもしれえんだよ、バカなやつだな」  本当にからかわれただけだろうか。  それでもまだ安心できない。何しろ磯崎は、他人を陰湿に追い詰めて不快にさせることにかけては、超一流だ。 「お前のこった、どうせあいつとも長く続かねえよ。別れたら連絡しろよ、また抱いてやるから」  まだそんなことを口にする。  誰がお前と、とすんで書きかけたが、憤然とした碧斗の心の奥底に、それでも新たな懸念の芽が萌し始める。元男娼であんな事件の当事者でもある自分との交際は、本当に久遠の仕事にダメージを与えないのだろうか。  大学の教員という堅い職業において、大きなマイナスに本当にならないのだろうか…?

ともだちにシェアしよう!