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「じゃあ、碧斗さんってすごい金持ちなんじゃないですかぁ。なんかずり~~。むしょうに裏切られた感じぃ~!」  一樹が口吻を荒げる。  もう、充分に酔っていて、酔眼朦朧とした態度で徳利から手酌する。赤くなった目はらんらんと光っている。 『そんなことない。曽祖父が物好きだっただけで』  碧斗はらくがき帳に鉛筆で弁明をしたためて、プラカードみたいにひっくり返した。この大きさがこの場ではちょうど良い。大きな字で筆記する間も、三人はなんでもないように待ってくれるから、ありがたかった。 「物好きだったからってそんなに金目の物ばっかし遺してくれたんなら、ひ孫の碧斗さんは超・得じゃないですかあ~。博物館への貸し料って月いくらなんですか? なんか僕、すっげぇ羨ましいんですけど~~」  金目の物を集めるなどとんでもなく犯罪じみている響きだが、なんということはない。碧斗の曽祖父は古物収集をしていただけである。 「それくらいでやめておけ、一樹! そうやってすぐ絡み酒になるんだから。若者は先に部屋に戻って寝てろ」  再び猪口を手にとろうとした一樹の手を、隣の王寺が押さえる。一樹はその手を素早く振り払って眉尻を吊りあげた。 「まだまだ、ぜんぜんだよ! それに、若者って言葉を使うのやめて!」  王寺の目が驚きを表したのに気付いたのか、一樹は一転、甘えるように王寺の浴衣にしがみつく。その大柄な身体へしなだれるように寄りかかった。 「だって~。こんなに楽しい夜なんだもん、意地悪言うなよ。僕、碧斗さんとこんなにゆっくり話せたことなかったんだよ? なんかいつも、孤高の人って感じでさぁ。下っ端の僕なんかが声をかけられる先輩じゃなかったんだよ」  男娼の世界で先輩もへったくれもないのだが。そもそも短期間ではあったものの、自分などよりも一樹のほうがよっぽど売れっ子だった。 「僕は碧斗さんがずっと気になってたんだよ、でも、ノンケだって聞いてたしぃ~」  性懲りもなくまだぐずぐずとグダを巻く。 「こら! もうお前は酒を飲むな! ほら、水!」  叱られて、水のグラスを口に持っていかれ、それでも恋人からそんなふうにあれこれと世話を焼かれるのもまんざらでもないような様子で、一樹は王寺の持つグラスからごくごくと水を飲み始める。  一樹はまだ二十一だ。そして久遠と同年の王寺翔真は、三十四。まさに一まわり以上も年の差のあるカップルだった。  一樹が男娼をするほど思い詰めた喧嘩の原因は、この年の差から起こったお互いへの引け目だったらしく、一樹が若者と呼ばれたくない気持ちは分からないでもない。しかしそれを乗り越えた今の二人は、なんだかんだいってとても仲が良さそうだ。 「確かにきみの勘違いのせいで、俺はだいぶ遠回りをさせてもらったけどな」  久遠が猪口を口に運びつつ、皮肉を乗せて笑う。 「それは言いっこなし! 何度も謝ったでしょ!」  一樹が一蹴する。  結果オーライで、今は幸福な碧斗も、クスっと鼻を鳴らして笑ってしまった。  京都にある文化博物館から、曽祖父の遺品のうちいくつかを展示してもよいと打診があったのは、二週間前だ。安土桃山時代の書家、一条兼良の直筆が三点。それがどう展示されているのかを見たくて今回の滞在となった。そんなプチ旅行に、久遠と一樹と王寺が加わって、こうして老舗旅館での晩餐となっている。 「それにしても、まるで身辺整理みたいなんで心配した」  口調を変え、久遠が碧斗の耳元で囁く。  このひと月、家族の遺品整理に余念がなかった碧斗への、率直な感想だろう。碧斗は苦笑を浮かべて首をすくめた。 《ごめん。でも、おかげで家がだいぶ片付いた》 「あまり根を詰めなるなよ」  久遠なりのいたわりだった。斜向かいで王寺が笑う。 「久遠、すっかり手話が読めるようだな」 「いや、まだまだ勉強中」 「それにしても、俺にはまったく分からないからさ」 「それもこれも、愛のなせるワザなんだよ!」  王寺の膝でくたりとしていた一樹が最後に声を張りあげる。すぐにまたクウ…と寝息をたて始めるから、それでひと時、三人で笑った。  トイレに行きたくなった碧斗は立ちあがり、部屋を出て左に歩みをとった。ところが一分もいかないうちに、こちらの方角のトイレは遠いと気づく。障子を出て右に行くべきだったのだ。  いったん元の座敷に戻って障子の前を通り過ぎようとした。その時不意に、声を落とした王寺の言葉が障子越しに聞こえた。 「じゃあ、碧斗にはまだ話していないのか」  爪先がぴくりと止まる。まだ話していないとは、なんのことか。  不在中に自分が話題にのぼっている。まるでいなくなるのを見計らって話されているようにも感じられた。 「まあな」  久遠の低い声が続く。 「しかし、いつまでも知らせないわけにはいかないだろう」 「むろん時期をみて伝えるつもりだ。だが、こればかりは慎重にしたい」  なんのことだろう。  気になるが、久遠の言葉からはいつまでも秘密にしておくつもりはなさそうだ。ならば話してくれるのを待つしかない。  恋人になれば今まで知らなかったこういう相手の隠れた一面も見えてきて、気苦労も増えるのだろう。  でも恋人を信じて、それを乗り越えるのも、一つの試練に思われた。  そっと障子を通りすぎ、近くのトイレへ向かいながら碧斗は、心細くなりそうな自分に「久遠さんを信じよう」と言い聞かせた。けれど不穏な胸騒ぎはなかなか収まらなかった。

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