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古書店の裏の自宅は久しぶりに思えた。
和室に入り、冷房のボタンを押しながら郷愁に似たものを感じる。
幸雄と暮らしていた頃からこんなに長期間、家を空けることなどまずなかったから、馴染みのない感覚に茫然としてしまう。古書店もこれほど長く休業したことはなかった。よく訪れてくれていた得意客の信用が、これでだいぶ失われたなと、今更ながらに苦い気分になる。
久遠が鞄から何かを取り出して碧斗へと差し出した。はがきと手紙の束だった。
「玄関のポストにあったものだ。無断でとるのは良くないと思ったんだが、はみ出るくらいに溜まってしまっていたからな。勝手に出してしまった」
礼を伝えて受け取った。
だが普段、こんな手紙やはがきが届くことはまずない。碧斗は一番上の封書を開け、何事かと中身を確認した。
『長いことお休みで、体調でも崩されているのかとても心配です。』
そんな書き出しだった。入院でもしているのか、何か困ったことはないかと心配してくれている文面だった。裏に住むおばさんからの手紙だった。
『豊崎さんがお休みなので、生徒に紹介したい古書が手に入らず、困っています。他店では用に足らず、お店の再開を心待ちにしています。』
一枚のはがきを久遠に見せた。
「蓮沼教授だ。すごいな、こんなメッセージはめったに書かない人なのに」
驚きを見せながら声をたてて笑う。
開いた手紙やはがきの数々から、激励と祝福のまじった言葉をたくさんもらった。
微力な店だとばかり思っていた。なのに休みを気にかけ、待ってくれている人がこんなにもいたなんて。思いがけないところで生き甲斐を与えられていたことに気づく。自分の人生は、けして闇ばかりではなかったのだ。
久遠がキッチンに立つ。夕食は手料理をふるまってくれるらしく、ここに来るまでにスーパーに寄ってきた。
はがきと手紙の束を、碧斗は和室の隅にある仏壇に供えた。
仏具店のチラシにあるような立派なものではなく、簡素な六畳間にふさわしいごく小ぶりのものだが、死んだ母と祖母のためにと幸雄が買って、大事にしていたものだった。写真たての中でその幸雄が不器用そうに口角をあげている。その横に小さなチロの写真もあった。
ろうそくを点して線香を供えた。
(ごめん…。お得意さんに心配と迷惑をかけちゃった。これからは、ちゃんと真面目に仕事するから)
手を合わせて幸雄に伝える。
久遠が居間の座卓に皿を運んできた。
手製のボンゴレビアンコは白ワインと塩気が効いていて、たいそう旨い。
フォークで大巻きにしながら夢中で碧斗は口に運んだ。何度も《おいしい》《すごくおいしい》と手で伝えた。久遠はその度に嬉しそうな笑顔を向けてくれた。
一緒に皿洗いを終え、和室でもう一度手紙とはがきを読み返していると、グラスを持った久遠が戻ってきた。真っ赤なサクランボまでがついている。ささやかな和室にはもったいないほどの洒落た晩酌だった。
《これってもしかして、セヴンス・ヘヴン?》
「ああ、よく分かったな」
久遠が明るい表情になった。碧斗は座卓のらくがき帳に走り書いた。
『あなたの小説から、セヴンス・ヘヴンってカクテルがあるのを知って、矢上さんに頼んで何度か作ってもらったことがあるんだ。ナンバーワンとナンバーツーとがあると教えてもらった』
「うん。今日は、ナンバーツーを作ってみた」
一口含めば、グレープフルーツのほろ苦さの中にマラスキーノのアーモンドに似た甘い芳香がほのかに香る。碧斗は素直に賞賛した。
「矢上さんみたいには、いかないけどな」
おどけた久遠はおもむろに、スラックスのポケットから四角くて小さな包みを取り出す。
「セヴンス・ヘヴンにカクテル言葉というものがあると知ってさ。さすがに自分の小説に使う言葉だから、調べてみたんだ。『本当の始まり』、という意味らしい」
碧斗を見つめてくる、その真剣な何かを訴えかけてくる強いまなざしに、ドキリとした。
本当の始まり。
『まるで、今のオレたちみたいだ』
自然とそう走り書いていた。
「うん。俺も、そう思った」
膝の上で取り出した包みの包装紙を開くので、碧斗はなんだろうと怪訝に思いながら眺めた。
包装紙の中から黒い上品な箱が現れ、久遠は繊細な手つきでその蓋を開ける。ゴールドのリングが二つ光っていた。
「次は、碧斗の好みを聞いて買うから」
すっかり固まったまま、碧斗は返事ができなくなる。
「それまで、もしよければ、これをつけていてくれないか」
(もし、よければ――?)
心が鷲掴みにあったように苦しくわなないた。
なんで。どうして、そんなことを訊くのか。
よくない理由など、何一つないじゃないか。
胸がいっぱいで、どう答えたらいいのか分からない。たまらなくなって俯いた。
そんな碧斗の耳朶にあるボールピアスに、久遠の指先がそっと触れる。
「これに似合うかと思って」
でも、こんなに幸福にしてもらってはと、胸が痛いほどに震える。本当に泣きそうになって顔を歪める碧斗を、久遠が愛しそうに覗き込んでくれる。
「左手の薬指につけていい?」
空気を振動させる低い声に、碧斗はゆっくりと頷いた。
魔法みたいだと思った。いつの間にか差し出してしまった手も。測ったみたいに薬指にぴったり合ったリングも。
「俺にもつけてくれる?」
甘やかにねだられる。碧斗はもう一つのリングを手に取り、しみじみと眺めた。リングの裏側には青い石が嵌め込まれ、愛の言葉が英語で刻まれている。
久遠の逞しくて長い薬指にそっと嵌めた。こそばゆく、幸せで満たされて泣きたくなった。
でも、こんなに幸せなのに、どこか寂しい。
貰う一方で、何一つ返せない自分。愛はどんなに深くても、受けとるだけじゃ寂しい。それはひどく欲張りなことだけれど。
『じゃあ、次は、オレの願いも聞き入れてほしい』
だから碧斗はそう書いて嘆願していた。
「もちろんだ。何が欲しい?」
おおらかに承諾した久遠は、碧斗が物品を欲しがっていると思ったらしかった。
自分から手を握った。
重なった手のひらからとろけるような心地好さが全身に広がる。久遠の愛情を身体の芯まで感じたいと思った。久遠の身体を、肉体の奥深くで感じたい。
『抱いてほしいんだ、久遠さん』
『今日は、最後まで抱いて』
そう綴った碧斗を、思いがけないような顔で久遠が見つめる。
「…いいのか?」
気遣いがちな問いかけに、もちろんだと碧斗は頷いた。
『そうしてほしいんだ。久遠さん』
この手が好きだ。ぬくやかな声も。
手や声だけじゃない。久遠の何もかもが好きだ。
もう離れないからと胸で呟き、久遠に腕を回してすがりついた。
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