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 再び颯田の声が外からした。忘れ物でもしたのか、誰かと話しながら戻ってきているようだ。 「碧斗ならまだいるよ。でもそろそろ帰るんじゃねぇか?」  不意に耳に届いた自分の名前に背筋が強張る。働きが悪いからと、社員から叱責でも食らうんだろうかと、身の縮む思いがした。 「碧斗、客だぞ」  ところが颯田の横にラフなジーンズ姿の長身の男が立ったので、驚いた。 男は碧斗を見るなり少し驚いた顔をして、すぐに目を細めて碧斗へとほほえむ。  愕然とした。ほんの一か月ほどしか会っていないのに、懐かしくてたまらない。 その男は久遠だった。 (久遠さん…!)  幻でも見ているのか。それとも幸せな白昼夢でも見ているのか。 (なんで、ここに――――?)  いや、久遠は能動的に探し当てて自分を見つけたのだろう。  この男はそういう男だ。決めたらやり遂げる、それができる男。  嬉しくて駆け寄りたいけれど、そうしてはならない。彼は西光寺浩嘉だ。自分などが付き合えば迷惑になる。どうしてこんな人物と人生が交わってしまったのか、我ながら運命の導きを恨めしくなる。  泣き出しそうな顔で久遠が近づいてくる。碧斗の臓腑が苦しくわなないた。 「碧斗…!」  安堵と切ないまなざしを碧斗に注ぐ。あれだけ愛してくれた男を手紙一つで置き去りにしたのだから、憎まれても仕方がない。その覚悟はできていた。  久遠が近寄ってくる。咄嗟に立ちあがった碧斗は一目散に窓へと走った。ここは一階で、窓から飛び出してしまえば逃げられると思った。  久遠も咄嗟に駆け出したのだろう、窓の直前で捕まり、その勢いで身体を抱きすくめられた。 「逃げないでくれ、碧斗…!」  詰まった声を出しながら、久遠が碧斗の背中を抱える。 (嫌だ…。嫌だ…)  久遠の腕の中で夢中で暴れた。それを久遠が抑え込む。 「すまない、碧斗。黙っていて悪かった。騙すつもりはなかったんだ。機会を見て、きちんときみに伝えるつもりでいた。俺が、西小路であることは――――」  碧斗を包み込み、目を合わそうとする。碧斗がいくら目線を側めても諦めない。仕方なく久遠を見あげれば、痛々しいまなざしがつらそうに碧斗を捉える。 「俺が西小路であるがために、きみが離れるというのなら、俺は、西小路をやめる。二度と小説は書かない。今日は、その覚悟できみを迎えに来たんだ」  耳を疑うような科白に愕然として、久遠を見あげた。久遠が小説を書かなくなるなど悪夢に他ならないのに、何を言い出すのか。  碧斗はぶるぶると首を振った。眼光を鋭くして久遠が続ける。 「きみが俺を嫌って離れたというのなら、ここまでしつこくはしない。けれど、今回のきみの行動は西小路のためを思ってした行動なんだろう。そうまでして想ってくれるきみを、諦めるつもりはない、俺は」  でもオレは、西小路の恋人にふさわしくない。  全身に震えが走って仕方なかった。久遠がぐっとこぶしを握る。悔しそうな顔だった。その口から、噛み殺すような声が発される。 「なにも恐れる必要はないんだ、碧斗…! 胸を張っていればいい。前にも言ったろう。きみには何も悪いところなどない。誰にどう言われようが、どう陰口を叩かれようが、俺はかまわない。そんな者達のために、俺達が変わる必要はない。どんなことになってもきみを守る。だから俺を、見損なわないでくれ――――!」  久遠の説得は思いがけず熱く心の奥底に沁み入って、碧斗を励ます。 「西小路は実力のある作家なんだ。何があろうと、その基盤が揺らぐことなんかない」  まるで自分ではない誰かを讃えるように、久遠は堂々と宣言する。 「そう教えてくれたのは、きみじゃないか」  泣きそうな声で訴えて、言葉を切る。 (いいのだろうか)  碧斗はあらためて自分に問いかける。  この男の恋人でいて、いいのだろうか。  男娼だった自分が。  親を殺した自分が――――。 「また純文を書き始めているんだ。きっと碧斗は、気に入ってくれると思う」  続く告白に、思わず涙がしたたり落ちる。  そうか。西小路は純文学を書き始めたのか。よかった。 「きみが西小路を蘇らせた。きみは西小路の恩人だ」  そんな、と、碧斗は必死に首を横に振った。そんなはずはない。彼は、彼自身で蘇ったのだ。 「もし、まだ俺を愛してくれているなら、一緒に戻ってくれ、碧斗。」  首を横に振る理由は、もうない。  ここまで自分を求めてくれる久遠の想いと説得に、返す言葉もなく。  碧斗の心をこわばらせていた鎧がぽろぽろとはがされてゆく。  自分を許さねばならない。  自分自身で、自分のすべてを開放しなければ。  不意に甘く肩を引き寄せられ、久遠の唇が碧斗を塞いだ。  逃げられなかった。  こうして抱かれてしまっては、久遠に惹きつけられるばかりの気持ちにあらがえるわけがない。  久遠のシャツをぎゅっと掴む。溺れる者が何かにすがるみたいに、いったん掴んだそれを手離すことはできなかった。 「あー…、碧斗――――?」  不意に、遠慮がちな颯田の声が横からして、碧斗ははっと顔をこわばらせた。久遠が唇をそっと開放する。  心地好い風の吹きこむドアの前で、夕日を背に、颯田が目の置きどころに困っているような顔でぽりぽりと頭を掻いている。それからさも嬉しそうに、ニっと笑った。この男のこんな軽快な笑顔を見るのは初めてかもしれない。 「よかったなぁ…。てか、なんだ。こんなにいい相手がいたんじゃねえかよ。なんか、安心したな。俺はもう無用だ。だが、最後に言わせてくれ。二度とここへは来るな。俺にしてみたらお前は可愛い小僧だが、こういう場所では一番、会いたくねぇ人種なんだよ」  親心にも似たやさしい心遣いに、碧斗の目に再び涙が盛りあがる。 「俺は、テメエの体をこき使うのが好きなんだ。だからこの仕事はしょうに合ってんだよ。だがお前は違う。まず、似合わねぇ。だからその人と元の世界に戻れ。な?」  約束だぞ、と、眩しいものでも見るように目を眇め、再び笑顔を見せてドアの向こうへと消えてしまう。 「そうか…。いい人に守られていたんだな」  温容な久遠の微笑に、碧斗は頷いて答えた。「ああ、」と、久遠が碧斗の手をとって嘆く。 「痛々しくて見ていられないよ、これは」  絆創膏だらけの手を久遠の両手がそっとくるんだ。言い知れぬ充足感がゆっくりと碧斗の裡に満ちていく。自分がいるべき場所に戻らなければならないと、眩しいような目覚めを与えられながら。

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