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   ◇◇◇ 「だから言わんこっちゃねえ。こんな白魚みてえな手ぇして、なんの因果でこんなとこで働かなくちゃならねえんだよ、まったくよ」  ここで働き始めて何度目かに耳にする科白を、男がまた口にする。  怒っているような、呆れてでもいるような顔で、碧斗の手のひらや指にできたマメの跡に軟膏を塗り、絆創膏を貼ってくれる。それも一か所や二か所ではなく、今の碧斗の手はマメだらけだ。  事業所の救急箱にある絆創膏はすぐにはがれてしまう頼りないものだからと、男は碧斗のために防水ではがれにくい、上等のものを家から持ってきてくれるようになった。ごつごつと骨ばった手で手当てする手つきは思いがけず器用でやさしく、なんとなく久遠のそれに似ている。  作業員用のロッカールームの窓から舞い込んだ風は、碧斗の前髪をさらさらと揺り動かして、向かいの開け放したドアへと吹き去ってゆく。十月間際の昼間はまだ残暑が厳しいが、日暮れにもなれば涼しい風に秋の匂いが混ざり、粗末なベンチに座る碧斗たちを爽快にしてくれていた。  他の作業員はさっさと帰ってしまった。  男は仕事からあがるなり、上着を脱いだ状態で皺がれた上半身の肌を晒し、碧斗の世話に明け暮れる。背丈は碧斗より少し低いが、色黒でこわそうな肌と、筋肉ばかりのがっちりした肉体は、男がこの仕事を何十年もしていることを推察させるに充分だ。薄い白髪に頬骨や顎骨が張ったなかなかのこわもてだが、垂れ気味の目に隠しきれない人の好さが滲み出ていて、事実、ずいぶん人懐こい男だった。 『世話かけてすみません。ありがとうございます』  碧斗の書いたメモに視線を置いた颯田(さった)は、機嫌を直すふうもなく「あーあー」と大仰に溜め息をつく。 「こんなガラみてぇな体して、何やってんだよ。どうせ、いいウチの坊っちゃんなんだろ。初日に見かけたときは一日でくたばるだろうと思ったが、フラフラしながらもう二週間じゃねぇかよ。テメエの体をなんだと思ってんだよ、いいかげんにしろよ」  なぜこうも怒られなくてはならないのかと、逆に笑いたくなるのをこらえて碧斗は首をすくめた。颯田の見かけ通りのべらんめえ調もなんとなく面白い。 「二十八にもなってこんなガキみてぇな風体してよ。お前、何考えてんだよ」  畳みかけられて、碧斗はますます小さくなった。  目が大きく女顔のためか、碧斗はもともと年下に見られがちだ。加えて自分の風貌が青臭いのにも自覚がある。いつまでたっても子供っぽさが抜けない自分を、碧斗はいつだって情けなく思っていた。人間、年相応に見えないのはやはりどこかに欠陥があるからだと思う。  だが、颯田の非難はその裏に碧斗へのやさしい同情があると分かっているので、嫌な気持ちにはならなかった。言い聞かせるような口調で颯田が続ける。 「見てられねぇんだよ。そろそろ他の仕事、あたれよ」  颯田は初日から、休憩時間でもないのに水分補給用のペットボトルを持ってきたり、休み時間には日陰の場所を教えてくれたりと、あれこれと碧斗を気にかけてくれていた。傷の手当ても初日の帰りからやってくれ、あまりに甲斐甲斐しいので、もしかしたら身体が目当てなのではないかと勘ぐってしまったほどだ。  それを確かめるために一度それとなく、『こんなにしていただいているのに、なにもお返しできなくてすみません』と、メモを見せて頭をさげてみた。すると痛くない程度に頭頂部をはたかれ、 「ヒヨッコが何水くせえことぬかしてんだよ! …いや、実はな、俺にもお前くらいの年頃の息子がいるんだ。別れた女に持っていかれちまったけどさ。お前みたいに可愛い顔してたっけよ」  なるほどそうか、この男は息子代わりにオレを可愛がってくれているのかと納得して、それでだいぶ気が楽になった。 「ほい。おまけ」  最後に軟膏を鼻の頭にくりくりと塗りつけられた。  颯田が乱暴に立ちあがる。自分のロッカーに戻り、ベージュ色した半袖のポロシャツをざくりと羽織った。  そんな颯田を見あげながら碧斗は、こんな男が父親だったら自分の人生はずいぶんと違っただろうと考える。休日にはキャッチボールなんかして、同じように日に焼けた鼻に軟膏を塗ってもらう、そんなあたたかな光景を思い描いた。  父親なしで生まれたと思いたかったから、碧斗は長い間、そんな想像はしないように生きてきた。そう想像したのは、久遠といた時だけだ。久遠の膝にかかえられながら、この人を父親に持つ子供は幸せだろうと、羨ましいほどに感じた。  颯田は久遠とはまったく違うタイプの男だが、やさしい言動を惜しみなく与えてくれる懐の深さが似ている。  颯田が腕時計をする。金属ベルトをカチッとはめる。この動作も見るたびに久遠を彷彿をさせる。  こちらに怪我をさせないように、久遠は性戯の前に腕時計を外したのだ。その動作のさりげなさとこちらへの配慮に、碧斗はその都度感じ入ったものだった。  けれど、こんなふうに久遠を思い出してばかりなのもつらい。愛する男への思慕に心がさまよってしまいそうになる。碧斗は颯田から目を外して視線を床に落とした。 「もう明日には来んな。分かったな?」  颯田は昨日と同じ言葉を残して、ひらひらと後ろ手を舞わせながら開け放したドアの向こうへと消える。  見送った碧斗は一人、ベンチに尻を貼りつかせたままなかなか動くことができなかった。今から何時間も一人の時間を過ごすのだという空虚さにとりつかれて、ただ茫然とした。  こうしていても思い出すのは久遠のことばかりだ。  久遠への愛しさで胸は伽藍洞だった。  でもこれだけ疲れ果てれば、少なくとも夜は泥のようにぐっすりと眠れる、それだけが救いだった。久遠を思い出して身を焦がしながら涙にくれずにすむ。父親を殺す夢を見ずにすむ。碧斗は、久遠と恋人同士になってから父親を殺す夢を見なくなっていたが、ここのところまたそれがぶり返していたのである。  こんな人生にさしたる希望はない。  けれど、それでも以前のようにこの世から消え去りたいとは思わなくなっていた。この世界のどこかで久遠が生きている、それだけで自分も生きていかれると思えるようになっていた。

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